2003年10月15日 発表会の風景(2) 語り草

ゲネプロが終わる頃は、うさぎが最も疲れを感じるときです。 朝からの慌しさに、ちょうど疲れがピークに達する頃。 客席に体を埋めてゲネプロを見ていると、ときどきフッと意識がなくなります。 あと数時間、発表会が終わるまで、はたして体が持つのだろうかと、ふと不安にもなります。

でも大丈夫。毎年やっていることなのだから。 たいてい、ゲネプロが終わって開場の時刻が迫り、 それまでの裏方着から受付の装いに着替えてお化粧を直すと、 気持ちがシャキッとしてもうひと頑張りできるのです。

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ところで、発表会には毎年さまざまなハプニングが起こります。 忙しくてみな細かいことまで気が回らないので、 毎年のように語り草が増えていくのです。 でもまあ仕方がない。 50人以上もの大人数が、年に一度の興奮と緊張の中で動くのです。 何も起こらない方が不思議です。

ある年には「会場に支払う数十万円をどこかに置き忘れたかも‥」と先生が言い出し、 会場中をみんなで探す大騒ぎとなりました。

開場の時間になってもゲネプロが終わらなかったこともありました。 師走の冷たい雨の中、お客さまをいつまでも締め出すわけにはいかず、 受付を預かるうさぎたちは途方に暮れたものです。

個人レベルの失敗を数え上げはじめたら、それこそキリがない。 今年も、うさぎが他の3人より少し遅れて楽屋入りをしようと会場に向かっていたら、 きりんがこっちに歩いてくるではありませんか。
「どうしたの? お菓子でも買いに行くの?」と尋ねると、
「ううん。家に戻るの。衣装を忘れちゃって。」
「えっ!! どうしてそんな大事なものを!!」
「‥入れたつもりになっていたんだけど、入っていなかった。 だから、取ってくるよ」
"‥取ってくる"ったって、家からここまで片道1時間かかるのです。
「仕方がないわね。‥ところで、家のカギは持ってる?」
「えっ? 家のカギ?? カギ?? ‥カギ??? ‥忘れたみたい」
うさぎは自分のカギをきりんに渡しました。 もし途中でうさぎと会わなかったら、きりんは一体どうするつもりだったのでしょう。 忘れ物を取りに帰った家で、カギの忘れ物に気付き、また会場に取って返す‥? 2往復するのに4時間もかけて?

でも、そういったハプニングも結局なんとかなるものです。 先生がなくしたと思ったお金はちゃんと見つかり、 ゲネプロが終わるまで、客席だけ閉鎖してロビーの扉を開き、 きりんはうさぎに会ってカギを手に入れた。 なんであれ、本番が無事に迎えられれば、結果オーライ。 あとで考えればいい笑い話です。

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毎年、発表会の幕があがるのは夕方です。
雑事を済ませて開演5分前、ようやく客席の隅に滑り込んで辺りを見回すと、 今年もまた、客席はガラガラでした。

ああ、また雨が降り出したのね、きっと。

ネネたちのバレエの発表会はここ4年連続、雨に祟られています。 10月から12月あたりといえば、さして雨の多い季節でもないのに。 生徒の中に誰か雨女がいるのでしょうか。
「雨女は誰なんだろうね」
「4年前から発表会に出るようになった生徒を調べれば分かるわよ」
そう言って調べてみたら、それはきりんでした。

さて、幕が上がって最初の演目は、 「ナポリ」という作品からとった賑やかな街のシーンです。 これにはチャアときりんが出るのです。

色とりどりの衣装を着た子供たちが8人、上手から出てきました。
「ええと、チャアは何番目だったかしら?」
あっ、いましたいました! 右から2番目の緑色のスカート、あれはチャアの衣装です。

「あら、なかなか上手く踊れているじゃないの」 そう思ってしばらく見ていたら、 ふと、もう一人緑色のスカートの子が左から2番目にいるのに気付きました。 ドキッとして、緑色のスカートの二人をじっくり見比べ、練習風景をよく思い出してみたら、 左にいるほうがチャアでした。 ああガッカリ‥。うさぎはしばらくよその子ばかり眺めていたのです。

でもまだ踊りは続く。 「二度とチャアを見間違ったりしないぞ!」と心に誓い、チャアの姿を目で追いました。

チャアは舞台中央で踊り終えると、袖近くで、「街の子供たち」としての演技を始めました。 でも、あらあら、 チャアはどうやら舞台袖近くに置いてあるテーブルの上の小道具が気になるみたい。 それに気をとられ、すっかり客席に背を向けてしまっています。
舞台の真ん中では大人たちが踊っている。 本当なら、小道具を手にしつつ、 その踊りを見ながらおしゃべりをしている演技をしなくてはならないはずなのに。

「コラ、チャア! こっちを向け! 舞台中央の誰かの踊りの方を見なさい!」 と念じつつ、うさぎも舞台中央に目を向けたら。

‥しまった! 舞台中央でいま踊っているのはきりんでした! 女性と二人きりで踊る一番の見せ場ではありませんか! 何ヶ月も前からこの舞台を見るのを楽しみにしてきたというのに。 もうガッカリ‥。

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チャアときりん、そしてそのあとネネが別の演目を踊り終えると、 うさぎはカササササ‥と、楽屋客席の間をゴキブリのように這って出口まで移動しました。 ロビーに出たら、今度はダッシュ! 早く楽屋に戻らなくては。 チャアに次の衣装を着せ付けなければならないから、大忙しです。 体裁なんか構っちゃいられません。

‥と、おっと、走っている間に落し物を見つけた!
受付の目立つところに置いておかなければ。

ところが、ひとたび受付に立ち寄ったら、お客さんが外から続々と‥。 うさぎはその応対に追われ、動けなくなってしまいました。

しまった、この時間の受付は鬼門だった。
近づいてはいけなかったんだっけ――。

雨で遅れてくるお客さんの数は少なくありません。 他の母親たちはみな本番を見るために客席に出払っているから、ひとたび 受付に立とうものなら、お客さんが途切れるまで、そこを動けなくなるのが常なのです。

外を見ると、どうやら雨は小降りになった模様。 聞くところによると、さっきまでは集中豪雨に見舞われていたのですって。 道理で遅れてくる方が多いわけです。

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さて、ようやくお客さまが途切れたところを見計らって、うさぎは受付を離れました。 また誰かにつかまらないうちに、ロビーをダ〜ッシュ!
お客さんからお預かりした花を抱えて走ります。 階段を駆け下り、楽屋口を抜け、また別の階段を駆け上がり‥。 途中で花を届けて、やっと楽屋に戻りました。