France  南仏コートダジュール

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【 ニーチェの道 】

道しるべ

エズ村で目覚めた最初の朝、うさぎたちは張り切っていた。

それは間違いない。 絶対、張り切っていた。 真夜中の12時過ぎて村に着き、ホテルに落ち着いたのはもう一時近かった。 それなのに、皆6時半には自然に目が覚め、あまつさえ、うさぎはカメラを抱えて朝の散歩までしたのだから。

朝食は、ゆうべアムステルダムで買った、あまり美味しいとはいえないサンドイッチで軽く済ませた。 それもこれも、時間を節約したいからだった。 限られた旅の時間を有効に使いたかったのだ。

今日一日のスケジュールはすでに決めてある。 まずは、エズの頂上にある熱帯植物園を軽く見学する。 そのあと最寄駅まで歩き、そこから国鉄に乗って、午前中は国境近くの町マントンでアンティーク市を見学する。 午後はバレエ学校の下見と観光を兼ねてモナコへ行く、というのが本日のメニューであった。

村を出るまでは、なかなか幸先がよかった。 朝の9時、植物園があくと同時に入園し、村のてっぺんから地中海を眺めた。 時間が惜しかったので、村内のお土産屋さんは、サラッと前を通り過ぎるだけにした。 本当に、てきぱきと、無駄なく行動していたのだ。 村を出るまでは。

ところが、村を一歩出たら、どっちの方向へ行ったらよいか、分からなくなった。 いやいや大丈夫、そういうときの策もちゃんと考えてある。 村を出たすぐのところに観光案内所があるのは調査済み。 ここで地図をもらえば万事うまくいくはずだ。

ところが。 観光案内所でもらったその地図を片手に、尾根道を走るバス通りをしばらくの間、ウロウロすることになった。 この辺にあるはずの、ニーチェの道の入口がどうしても見つからない。

地図の見方が間違っていることに気づいたのは、さんざ付近をウロウロした後のことだった。 なんと、全然違う方角じゃん‥! バス通りまで降りる必要なんて、全くなかったのだ。 ニーチェの道への入口は、村を出たすぐのところにあり、 むしろ観光案内所よりも近かった。

ともかく、やっと探し当てたニーチェの道を行く。 それは狭い山道だった。 ニーチェが「ツァラトストラはかく語りき」の構想を練ったとかいう曰くつきだったから、 なんとなく垢抜けた散歩道を想像していたのだが、 ヤブに囲まれ、足場の悪い、ただの山道だった。

しかも、けっこうきつかった。 村から駅までは、海抜400メートルを、ただひたすら降りて行けばよいはず。 登りはきつく40分くらいかかるらしいが、 なに、ただ降りるだけなら20分もあれば着くだろう――そう思ったのは甘かった。 なだらかとはいえ、登る部分もあったし、何より「下り」というものを甘く見すぎていた。 夏の気軽なサンダルなんか履いてきたのも無謀だった。 足元が安定しないせいで、余計な負担が足にかかり、ズキズキと痛んだ。

ただ幸いなことに、ままりんだけはまともな靴を履いていた。
「山歩き用の履きやすい靴と、モナコの街を歩くためのオシャレな靴、どっちがいいと思う?」 とままりんに尋ねられたとき、おしゃれなほうを勧めたのはうさぎだ。 でもままりんは結局、山歩き用の靴を選んだ。 それは実に賢明な選択だったといえよう。 それでも古希を過ぎたままりんには、――いかに健脚とはいえ――ちょっとハードすぎる道だった。

母よ、ロマンチックな曰くに騙された、愚かな娘を許したまえ‥。

もう一つ辛かったのは、ほとんど人に会わなかったことだ。 道は駅まで一本道で迷うことはないと聞いていたが、 そこはケモノ道に毛が生えたような山道、どこまでが道で、どこからが道じゃないんだかもよく分からない。 道が続いている以上、これで大丈夫と思いたいが、 近くに駅など全く見えない地中海の光景を見下ろしたときには、このまま遭難したらどうしようかと不安になった。

ただ唯一、心の支えだったのは犬のフンであり、 「犬のフンが落ちているということは、全く道から外れていることもあるまい」という 根拠ともいえない根拠だけが頼りだった。 地中海は青く、また空も澄み渡っていたが、見えるのは自然だけ、人も人造物も見えないとなると、 フランスへ来た実感は何もない。

地中海が何だ、太平洋と変わらない、ただの海じゃないか。
コートダジュールの峰がなんだ、ただの山じゃないか‥!

「ニーチェが歩いた道を自分も歩いている」という感慨にふけるには、この道は長すぎるのであった。

道の入口から、40〜50分歩いただろうか。 やっと街らしいものが見えてきた。 駅近くの山の急斜面には、別荘と思しき瀟洒な建物がたくさんしがみついている。 線路も見え、汽車の警笛も聞こえる。

あともう少し! 後を振り返って岩山を見上げるが、藪に阻まれてエズは見えない。 でもあのずっと上のほうからここまでやって来たのだ。

下のほうから、汗をびっしょりかき、上半身裸になった一行が登ってきた。
「ヴザレ・ジャスカ・エズヴィラージュ? セ・アンコール・トレロワン! ボンクラージュ!」 大急ぎでフランス語の文を組み立て、声をかけてみる。 だが、先方は肩で行きをしながら怪訝そうな顔をして通り過ぎた。

‥と、うしろから「イクスキューズミー?」と声がかかった。 振り向くと、上から英語が降ってきた。
「まだ遠いですか?」
「ウイ!」と反射的に答え、あ、違った、「イエース」と答え直した。 「あと1時間近くかかると思いますよ」

彼らは互いの顔を見合わせた。 「どうする?」と言っている顔つきだ。 それぞれに鍛えていそうな体つきだが、決して若くはない。 こんなに日差しが強いのに、帽子も被っていない。 みな手ぶらで、水を持っている様子もない。 もしここで意見を求められたら、「悪いことは言わない。水を買って出直しなさい」と言いたいところだ。 そんなややこしいことを英語で言えたら、の話だが。

彼らのその後は知らない。 うさぎたちはまたひたすら降り、汗びっしょりになって駅に到着した。 時計を見ると、なんと、もう12時近い! 村を出てから約2時間、 ニーチェの道を歩き始めてから考えてちょうど1時間が経過していた。 休むことなく歩き続けて、この顛末。 マントン散策に充てるはずの午前中は一体どこへいったのだ?!

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