Hongkong  香港

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【 アフタヌンティー 】

プチケーキ

九龍公園の遊具で遊んでいた子どもたちに声をかけたのは、4時15分のことだった。 菜々子ちゃんと約束したのは4時半。15分あればインターコンチネンタルホテルに着けるだろう。

けれどもそれは甘かった。 九龍公園は広く見所満載で、ついあれやこれやで足を止めてしまう。 公園を出たら出たで、彌敦道(ネイザンロード)の人ごみを掻き分け掻き分け進むのは、 イモ洗いのようなプールで泳ぐのと同じだ。 結局、彌敦道と垂直に交わる海沿いの梳士巴利道(ソールズベリーロード)を渡らないうちに約束の時間がきてしまった。 何が「先にお茶して待ってる」だ、 約束の場所に子どもたちの姿がなかったら、菜々子ちゃんはどれだけ心配することだろう。

「ああもう約束の時間だわ。急がなきゃ!」 大通りをどこでどうやって渡ったものか考えあぐね、うさぎが時計を見ながらイライラして言うと、
「大丈夫だと思います。お母さんはいつも5分や10分くらいは絶対遅れてくるから」とのくるみちゃんの力強いお言葉。 おかげで少し落ち着いて、地下道の存在に気がついた。

約束の時間に遅れること約6分、約束の場所に着いたらやっぱり、菜々子ちゃんはすでに来ていた。

さて、アフタヌンティー。「三段トレー」にお菓子がのって出てくるアフタヌンティーこだわったのはうさぎである。 うさぎは最初ペニンシュラを考え、 その後、景色のよさを取ってインターコンチネンタルホテルのロビーラウンジに意を翻した。 実際、海の背景をバックに金色に輝く三段トレー、その脇で鈍い光を放つ銀器はうさぎを大喜びさせたものだ。

ケーキを食べながら、うさぎは菜々子ちゃんに、この数時間の収穫についてたずねた。 彼女が一体どういう戦利品を持って現れるか、実はうさぎはワクワクしていたのだ。

菜々子ちゃんの戦利品は、ホタテの乾物をどっさり、中華包丁を5本ほど、それに日本ではどこの支店で尋ねても 売り切れだったという曰くつきのヴィトンの新作バッグ。 さすがは菜々子ちゃん、この短い時間の間に、欲しいものをきっちり手に入れたようだ。

明日は日本に帰る。 親たちが買い物の収穫について盛り上がるうち、くるみちゃんが 「今夜はチャアちゃんと一緒に寝たい」と言い出した。

これは昨日も、二人が盛んに言っていたことだ。 二つの部屋に、子ども同士、大人同士に分かれて寝たい、と。 けれどもそれは、親たちには到底承服しかねることだった。 同じホテル内とはいえ、部屋は18階と21階に離れている。 18階から21階の部屋に行くには、中層階用エレベータで3階のロビーに下りた後、 高層階用に乗り換えて、21階まであがらなくてはならない。 そんなに離れている部屋に子どもだけで置いておくわけにはいかない。
「万一火事になったらどうするの? 地震がきたら? 第一、そんなことをしたらママたち、養育放棄の疑いで捕まっちゃうわよ」とうさぎは言い、
「だいたい、あなたたちはいいわよ、子ども同士で。でもお母さんたちはどうするの? いくら仲良しでも、ダブルベッドにいい大人が一緒に寝る?! ありえないわ」と菜々子ちゃんは言ったものだった。 それを聞いて、さすがの子どもたちも黙った。

けれど今日は、敵も戦法を変えてきた。 「お母さんが一緒でもいいから、チャアちゃんとおかあさんとわたしと、3人で一緒の部屋に寝たい」と くるみちゃんは言ったのだ。 チャアのほうは「ねーっ、チャアちゃん」と相槌を求められると、「う‥ん」と曖昧に返事をしつつ、 様子見を決め込んでいる。 くるみちゃんと一緒に寝たいと思っていないわけではない。 昨日「ダメ」と言われたから、今日もダメだろうとハナから諦めているのだろう。

でもくるみちゃんは諦めなかった。 昨日の大人の言い分は、今日は当てはまらない。 「どうしてダメなの?」と繰り返すくるみちゃんに対し、うさぎたちはもはやまっとうな言い分を思いつかない。 「最終日だし疲れているから」という言い訳も言ってみたが、どう考えても弱すぎる。

それでも菜々子ちゃんは「とにかくダメ」といい続けた。 その気持ちはうさぎにも分かる。 子どもというのは、親の気持ちが揺れたら最後、 そのサインを決して見逃さず、更なる揺さぶりを仕掛けてくる生き物である。 中途半端に検討するそぶりを見せるのは、期待させるだけ可哀想で、 可哀想だと思い始めたら最後、結論はおのずと決まってきてしまうのだ。 だから、子どもを前にした親に"慎重に検討する"という選択肢はない。 ダメと一度言ったら、最後までダメと言い通すのが結局のところ一番安全で、 さもなければ、ズルズルと子どもの言いなりになるしかないのだ。

でもうさぎは、すでに子どもたちが可哀想になってきてしまっていた。 そもそもずっと4人で一緒に行動してきたのは、菜々子ちゃんとうさぎが一緒にいたいという以上に、 すっかり仲良くなった子どもたちを引き離したくないからだった。 この素敵な香港での休日を、お泊り会で締めくくりたい、という子どもたちの気持ちはよく分かった。

それでも昨日の提案は確かに絶対に"NO"だった。
でも今日の提案は。 子どもたちは明らかに昨日より譲歩している。 親の方もなんとか譲ってやれないものだろうか。

「ちょっとトイレ。菜々子ちゃん、付き合って」とうさぎはいい、席を立った。 素敵な三段トレーを前にしてトイレブレイクもないものだが、作戦会議に持ち込むにはそれしか方法がない。 前述の理由により、親たちは子どもの前で討議するわけにはいかないのだ。

ゴージャスなインターコンチネンタルホテルのトイレで、菜々子ちゃんとうさぎは討議した。
「なんなら、わたしが二人を見るわよ。菜々子ちゃんは明日から会社だけど、わたしは専業主婦だから、何とでもなるし。 それで何とかお泊り会を実現できないかな」とうさぎは言った。
すると菜々子ちゃんは言った。 「うさぎちゃん、分かったわ。でも大丈夫。わたしが二人を見るわ」と。

その瞬間、うさぎは自分の失敗を悟った。 菜々子ちゃんには、今日くるみちゃんをうさぎに預けた負い目がある。 だからうさぎに「お泊まり会の実現」を提案されたら、 菜々子ちゃんは「わたしが預かる」と答えざるを得ないではないか。好む好まざるに関わらず。 そこに考えが及ばなかったとは。

「あのね、菜々子ちゃん、もしわたしにお気遣いいただいているのなら、それはご無用よ」とうさぎは慌てて言ってみたが、 菜々子ちゃんはもはや腹をくくってしまったようだ。 彼女から答えを選択する権利を奪ったのは、他でもない、このうさぎだった。 まるで考えなしの。

更にトイレで立ち話をしていると、菜々子ちゃんの気持ちの片鱗が見えてきた。 くるみちゃんは長子で、下に妹がいる。寝るときもお母さんを挟んでいつも一緒。 だから普段、妹の影でガマンを強いられがちなくるみちゃんと二人きりの時間を大事にしたかったのだ。

なのにうさぎときたら。 自分だけ妙に物分りのいい親のつもりになって、菜々子ちゃんの気持ちに気づかなかった。

しばらくすると、子どもたちがトイレに迎えにきた。 ラウンジの席に戻ると、うす青かった空は、濃い赤紫色になっていた。 香港島摩天楼は、すでに華やかなネオンで彩られている。 ほとんど黒いシルエットになりかけた小さな舟が、水路を渡っていく。

アフタヌンティー用のラウンジは照明を落とし、バーのムードを漂わせはじめた。 ここからは大人の時間だ。子どもはいてはならない。 大人になりきれていない親も。 皆は残りのデザートを精一杯お腹に収めると、会計を済ませ、席を立った。

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