わたしの通っているアラビア語学校には、二十歳代の若者から、還暦を過ぎた人まで、さまざまな年齢層の生徒がいます。とはいえ、わたしのクラスは若い人が比較的多い。二十歳代の若者に囲まれて、毎日一緒に授業を受けています。
この若者たちというのが、まあ本当によく勉強する人々です。教室での席は前から順に埋まっていく。予習はバッチリやってくる。わたしが学校についた頃には教室はすでに勉強会の真っ最中で、図書室で勉強している人たちも。目方が1キロ以上ありそうな分厚いアラ・英の辞書を引くことも厭わず(そもそも毎日持ってくるところがエライ)、休み時間も返上で授業の不明点を皆で確かめ合う。それがここでは普通です。もしこんな光景が大学で展開されたら、教授が泣いて喜びそう。…いやそれとも近頃の若者は昔と違ってよく勉強するのでしょうか。自分の大学時代を振り返ると、ここの状況はありえない気がしますが。
しかも驚くべきことに、ここの人たちは、勉強だけしているわけではない。多くの人が、働きつつ、学んでいるのです。日中学校に通っている以上、9時5時勤務は無理ですが、学習塾など、夕方から夜にかけての職場というのはけっこうあるんですね。学校が終わると仕事に向かう人が少なくありません。また、週末に海外へのフライトを控えたフライトアテンダントなど、学校の休日に仕事をする人も。タイトな時間のやりくりと、そのバイタリティーには驚かされっぱなしです。
この学校の生徒は、日本社会における身分が非常に曖昧です。わたしは今の自分を「学生」だと思っていますが、学校は大学でもなければ専門学校でもない、学校法人ではないので通学定期が買えません。だから厳密には「学生」の範疇ではないのかも。
となると「フリーター」ということになるのかな。つまり、「会社員」とか「学生」など、既成の概念に収まらない「その他」の部類。9時5時の職についてるでもなし、さりとて日本政府から認可を受けた学校の生徒でもないのですから。「高校生」「大学生」といった既成の概念の範疇内にいることが、いかに社会的に守られていることか、ここに来て分かったような気がします。
また、この学校を卒業しても、それが日本社会においてどのようなアドバンテージがあるのかまったく不明です。入学しさえすればたいてい卒業できる日本の学校とは違い、東京のど真ん中にあっても、ここは外国。実力が学校の求める一定のレベルに達しなければ容赦なく落とされます。進級できない。
したがって卒業できるのは在籍者のほんの一握りですが、無事卒業にこぎつけたところで、「高卒」「大卒」など既成の肩書きが得られるわけでもなし、どんな未来が待っているかは神のみぞ知る。「卒業すればなんとかなるだろう」的な発想では「なんともならない」。
でも不思議と、ここには「アラビア語なんか勉強して一体何になるの?」と言う人がいません。アラビア語が好きだから、面白いから勉強する。努力している時間より、努力する理由を考えている時間のほうが長いわたしからすると、これは奇跡のようですが、努力するのにいちいち理屈が必要なのは怠け者の証拠。努力家は、理屈なんか考えてるヒマがあったら、少しでも多く学ぶんですね。みんなを見ているうちに、わたしも「アラビア語を学ぶ意義」について無駄に考えなくなりました(笑)。
いま自分の目の前にあるものに向かって一生懸命努力する。それってすごいことだな、と、周囲の人々を見ていると思います。わたしもそういう人になりたい。そして、常に自分のやるべきことをきちんとやっていさえすれば、明るい未来が開けないはずがない。見ている人はちゃんと見ている。だからつべこべ言わず、安心して、自分の好きなことに向かって頑張ればいいんだ、とわたしも最近、スルッと思えるようになりました。