アラビア語

アラビア語学校の日常8 「タダ」の重さ

 学期末の休みに入り、授業はないというのに相変わらず学校に毎日通う日々です。しかも滞在時間はむしろ長くなっているような…^^;。休み中でも図書室やラボが使えるので、学校に行きさえすればやることには事欠きません。

 その辺をうろちょろしていると、ちょっとしたお手伝いを頼まれることも。これが嬉しい。なぜって先生方のお手伝いはアラビア語を話す最大のチャンスだからです。第一、学校のお役に立てるのは嬉しい。日ごろお世話になっている学校に、「少しは恩返しができたかな」と思えるからです。

 以前も書きましたが、わたしの学校は授業料がタダです。教材費に関して若干の自己負担分があるものの、たいした額ではありません。国立大学ですら年間50~60万円もの学費がかかるこの現在の日本にあって、まったく稀有な環境と言えましょう。本当にありがたいことだと思います。

 とはいえ「授業料がタダ」というのは、実際のところ、本当にうまいやり方なんだろうか、と思うことがあります。今日も、入学して最初の1週間で10人減ったクラスがあるというウワサを聞き、もしかして、授業料がタダだから気軽に入学し、気軽に辞めてしまえるのではないだろうか、と思いました。もし普通の専門学校のように学費が何十万も、或いは100万以上もかかるのだったらどうなんだろう? さすがに1週間で辞める人はそういないのではないか。じっくり考えて必ず続けようと決心した人だけが入学し、よしんば途中で挫折しそうになっても、かけた金額を思って踏みとどまれるのではないか。

 そう思う一方で、「タダって気軽なばかりじゃない」とも感じています。たしかにわたしがこの学校に入ったのは、授業料がかからないという敷居の低さがあったればこそで、そういう意味では「タダだから気楽」だったわけですが、同時に「タダだからこその重み」も感じます。

 そう。この「タダ」は重い。タダではありえない教育費がタダであるということは、本来自分が負担すべき分を誰かが肩代わりしてくれているからであり、その「誰か」の期待に応えなくてはならないと思うからです。その期待が重い。学習成果がどの程度出せるかはイン・シャー・アッラーとしても、期待を背負ってタダで学ばせてもらっているからには、授業くらい真面目に出ようじゃないか、と思っています。自分で授業料を全額支払うならば途中で辞めるも辞めないも自分の自由ですが、誰かに授業料を肩代わりしてもらっている以上、そのくらいの努力は義務の範疇ではないか、と。そう感じていたからこそ、雨の日も風の日も、眠くても疲れても、休まずに通えたのだと思います。ナマケモノで朝の苦手なわたしが毎日通い続けられたのはひとえに「タダ」の重みを背負っていたからです。

 しかもタダでアラビア語を学ばせてくれている我々の「あしながおじさん」は外国の大使館。そこにあるのは「わたし個人への」というよりは「日本人全体への」期待です。「自分への評価」が「日本人全体の評価」に直結することの緊張感を、海外に出たときと同様、この半年間、常に体のどこかで感じてきました。この「タダ」は自分だけの問題ではないからこそ余計に重い。大げさに言うと、自分の身に背負った「日本という国の重さ」でもあります。

 自分の行動如何によって、日本人の評価を高めることにもなれば、逆に評判を貶めることにもなる。そう思うと、授業に真面目に出席することだけでなく、その他の点でも、あんまりいい加減なことはできないゾ、と思います。現代のおとぎ話のようなこの学校が存続すること自体、我らが「あしながおじさん」が日本人を信じていればこそなので、その信頼を裏切るような真似はしたくないなあ、と思うのです。

 まあそうは言っても、おっちょこちょいなわたしのこと、学校滞在時間が増えれば増えるほど、とんでもないヘマをやらかしてしまうんですよね。先日はこともあろうに、食堂のオーブントースターでベーコンを焼こうとしてヒンシュクを買ってしまいました(汗)。イスラム教では豚肉がタブーなこと、そしてベーコンが豚肉であることを、ついうっかり忘れていたのです。

 わたしの場合、日々のちょっとしたお手伝いは、そういうポカのせめてもの罪滅ぼし・埋め合わせでもありますが、そういうペナルティなどなくても、ここの学生はみなよく手伝います。それも、学年があがるほどよく手伝うような気がする。いやそれとも、そういう人だけが残っていく、ということでしょうか。これも、「タダ」の重みを感じればこそ、何らかの形で「あしながおじさん」の気持ちに報いたいと思う気持ちの表れなのだと思います。

親たちは田を耕し我らに食べさせた
我らは子らに食べさせるために田を耕す

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