4月から、わたしのアラビア語学校生活も二期目に入りました。4月から新しくできたクラスもあって、わたしはちょっと先輩になったような気分。新しく入ってきた人たちにエラソーにアドバイスしちゃってる自分がいて可笑しくなります。
一緒に進級テストを戦い抜いたからでしょうか、2月の試験を境にクラスメートとの距離も一気に縮まりました。約2ヶ月間の休暇後の再会は嬉しく懐かしく、まるで学園ドラマみたい。ハリーポッターで一番好きなのは休暇後繰り広げられる級友との再会シーンですが、わたしにも今ロンやハーマイオニーやネビルがいる。それって本当に素敵です。
このあいだ会話の授業で「新しい職に就くとしたら、職場を選ぶにあたっての諸条件をどの程度重視するか。仕事の内容、給料、勤務時間、職場の人間関係などについてそれぞれ答えなさい」という問いがありました。この問いに対する答えは人それぞれ。まずは給料を優先し、ほかのことにはそれほどこだわらない、という人もいれば、勤務時間が少なく休暇が多いことがまず大事、という人も。意外に仕事の内容にこだわる人が少なく、職場の人間関係についてはたいていの人が大事だと答えていました。ただ授業が終わったあと「あの問いってけっこうビミョーだよね。だって人間関係って確かにすごく大事だけど、職場を選ぶ時点では分からないもんね、実際問題」とみんなで笑いました。
アラブのことわざに「旅路より先に道連れを、家より先に隣人を問え」というのがあります。確かに、同じ道を歩くのでも、誰と一緒に歩くかでその苦楽は大違いだし、どんなに素敵な家に住めたとしても、隣人が意地悪だったらそこは針のむしろとなる。そう考えると人的環境というのは本当に大事だなと思います。とはいえ先ほどの職場選びの問題同様、旅の道連れくらいは選べても、隣人を選ぶのは実際問題として難しいものがある。そこが頭の痛いところです。
でもアラブ社会ではどうなのでしょうね。人間関係が密な分、人間に関する情報も豊富で、誰と一緒に仕事をするか、誰の隣に住むか、そういう観点で仕事や住みかを選べるのかもしれない??! もしそうだとしたら、これは石油が出ること以上に羨ましいかもしれない。
そういえば私の学校の先生方は同僚で選んだ職場というわけでもないでしょうに、なぜだかみなものすごく仲良しで、いつもものすごく楽しそうに一緒に連れ立って食事に行ったりしています。先生方を見ていると、うーん、こういう職場っていいなあ、と羨ましく思います。
ただわたし自身も今、アラビア語学習に於いて今、素晴らしい仲間に恵まれているので、先生方を羨む必要もないかな。本当にわたしの仲間は素晴らしい。この人たちと一緒じゃなかったら、たとえ同じ授業を受けていても気づかずに通り過ぎてしまっていたはずのことがたくさんあります。
自分には聞き取れない音が聞き取れる仲間
たとえば先日「ターマルブータ」の授業がありました。
「ター・マルブータ(結ばれたター)」は「普通のター・マフトゥーハ(開かれたター)」と音はまったく同じ。ではどこが違うのか。
まず先生が、最後にターマルブータがつく単語をいくつか発音してくれました。
- ファーティマトゥ(女性の名前)
- ファーキハトゥ(果物)
- マディーナトゥ(街)
これらは
- ファーティマ
- ファーキハ
- マディーナ
とも発音できる、と先生はおっしゃいました。わたしは「うんうん、最後のターマルブータは発音しなくてもいいんだよね。ターマフトゥーハは発音を省略できないけど、ターマルブータは発音を省略できるんだよね。ウンウン、知ってるよ」と思いながら聞いていました。
ところが休み時間、隣の席の友達が言うのです。
「ねえねえ、日本の文法書には『ターマルブータの発音は省略できる』ってよく書いてあるけど、あれって違うんだね」と。
わたしは驚いて聞き返しました。
「…えっ?! 違うの? それのどこが違うの?」
「だって先生がいまさんざやってみせてくれたじゃない。『ターマルブータ』が『ハー』の音に変わるところを」
「ええええーーー!! 『ハー』?! …知らない。わかんない。先生『ハー』を発音してた?」
「してたじゃない。『ファーティマーッ』って」
それ聞いても、わたしには最後に「ハー」が入っているようには聞こえませんでした。確かに先生は単語の最後で大げさに息を引き取るようなかんじに発音していたけれど、あれは「ターがついていないよ」ってことを大げさに示していただけだとばかり…。
「とにかく先生に確認してみて。『ターマルブータの発音は省略されるんじゃなく、ハーの音に変わるんですよね』って」と友達。
そこで先生に確認してみると、彼女の言うとおりでした。やはり「ターマルブータの発音が省略できるということはない」とのこと。省略できるのは、ターマルブータについている上の二つのテンテン。つまり、ハーに変わるのですと。
「でも先生、この辞書にもそう書いてあるんですけど…」とわたしが言うと、
「その辞書は全体としては素晴らしいが、その部分に関しては記述を改めなくてはならない」と確固たる返答が返ってきました。
それにしても、あの先生の発音から「ハー」を聞き取った友達ってすごすぎ!! わたし的には、日本人なら聞き取れないほうが普通だと思うんですけど。…って彼女、日本人じゃないんでした。日本語ペラペラだからつい忘れちゃうけれど、実は彼女は中国人。中国語は日本語よりずっと音が豊富だから、日本人に聞き取れない音が聞き取れるのでしょう。
自分には聞き取れない音を、目の前でやすやすと聞き取る人がいる。それはなんともいえない奇妙な体験でした。まるで超能力を間近で見た気分。…いや、少なくとも自分にない能力である以上、わたしにとっては本当に『超能力』です。ああー、でも中国人だけでも世界に10億人いるよねー。世界ではこの音が聞き取れない人のほうが少数派なのかもしれません。
しかし、ハーの音を聞き取れない凡庸な日本人であればこその存在価値もあるわけで…。わたしが質問したことにより、先生は「あれだけやってみせたにも係わらず、まるっきり分かっていない生徒がここにいた」という事実にいやおうなく気づき、次の授業では「ターマルブータはハーの発音に変わることがある」と、言葉できちんと説明してくださいました。これはわたしの功績です♪
自分がやらない応用に挑戦する仲間
もうひとつエピソードを。文法で動詞の短形(要求形)を使った「~すれば、~する」という構文を勉強したときのこと。たとえば「勉強すれば、試験に受かる」というような文を10文ほど各自書いてくる宿題が出されました。
ところが。その答え合わせで先生に直される人が続出しました。実はテキストにある例題は男性形単数ばかりだったのですが、双数や複数形、もしくは二人称女性単数を主語にして作った人たちがいたのですね。それらがすべて直されたのです。動詞活用を間違えたわけではありません。そもそも「~すれば、~する」という構文(名づけて『短形二連発構文』)の場合、「5動詞」と呼ばれる双数や複数、二人称女性単数などは使わないそうなのです。
実はこれはテキストのどこにも書いておらず、先生も説明し忘れていたことでした。あまりに間違った人が多いので、全員分の宿題の直しを終えたあと「もう、なんでみんなこんなに間違うの? これには5動詞は使えないのよ」と先生が笑って説明してくださったのですが、みな寝耳に水。エエーーーッ!! なんで?!と教室中大騒ぎになりました。「前に説明したはずよ」と先生はおっしゃいますが、いいえ、聞いてませ~ん!
この一件で宿題を直されたのは『できる人たち』です。なぜならテキストにない動詞活用を使うなんて、余力がなかったらわざわざやらないからです。アラビア語の原型は三人称男性単数。だから宿題の文も三人称男性単数とか二人称男性単数で作ればラクなのです。そこをわざわざ難しい動詞活用に果敢に取り組んだのだから立派! わたしなんぞはテキストにある文章をちょこっと変えただけの文章を作って提出したものだから、複数だの双数だのは一切なく、したがって直されませんでした。もしわたしみたいな生徒しかいなかったら「短形二連発構文に『5動詞』は使わない」なんて法則には触れることなく授業が過ぎていってしまったに違いないのです。
ほんと、自分だけじゃなくてよかった。いつも半歩上を目指して歩いている級友たちで、本当によかった。もともとわたしは独習派で、学校でできることはたいてい家でもできると信じていますが、一つだけ、どうしても独習では得られないものがあると最近気づきました。それは「仲間」です。自分の前に道を作り、導いてくれる教師は確かに有難い存在ですが、それは独習でもなんとかなる。テキストや教材などに代わりを務めてもらうことができるからです。
でもその道を一緒に歩いてくれる仲間の役割をテキストに代わってもらうのは無理。だからやっぱり「旅路より先に道連れを、家より先に隣人を問え」なのでしょう。