ビッグサイトでブックフェアサウジアラビアブースのお手伝いをしてきました。
わたしの仕事内容は、展示物の警護とブースに来てくださったお客さまの接客。お客さまは日本人がほとんどでしたが、ときどき外国の方から英語で質問を受けたり、アラブ人スタッフとアラビア語で連携を取ることもありました。
ここで驚いたのは、日本人からアラブ人に間違われたり、通訳に間違われたりしたこと。日本人に日本語で対応し「すごい! 日本語、カンペキですね!」と褒められたり(?)しました。大使館のブースにスーツ姿で立っていたので、きっと通訳か大使館員に違いないという先入観もあったのでしょうが、それに加え、どうやらアラビア語がペラペラなように見えたようです。日本人だと言うと今度は「えっ! アラビア語、ペラペラですね!」と褒められました。
全くその言語を知らない人が感じる「ペラペラ」の基準というのは案外低いのかもしれません。そういえば私自身、誰かが英語を話しているのを聴いて、それが自分の実力以下の英語ならば「全くできない」のか「中学生レベル」なのか「高校生レベル」なのかを判断することができますが、自分の実力以上の英語に関しては、それが「ネイティブ並」なのか「英語が上手な外国人程度」なのか区別することはできず、単純に「ペラペラだ」としか判断できないと思います。ましてそれがカンボジア語やスロベニア語やスワヒリ語だったら・・・。これはもう、「カタコト」も「ネイティブレベル」も、全く見分けがつかないだろうと想像がつきます。
つまり「カタコト」とか「ペラペラ」というのは多分に主観的で、判断する人によるんですね。人は、自分が内容を理解できない状態を「ペラペラ」と呼ぶ。だから人によって「ペラペラ」の範囲は異なる。実は「ペラペラ」というのは、下は「カタコト」から上は「ネイティブ並」の広大な範囲なのかもしれません。
一方、「カタコト」の範囲も広い。ある一つの言語がカタコト喋れるようになるには3ヶ月もあれば充分。フランス語を始めて3ヶ月後には南フランスのマルシェで初対面のフランス人と「カタコト」のフランス語で会話してましたから。その人が、どこから、誰と、何のためにニースにやってきて、あとどれくらいで帰るのかくらい、なんとか理解できた。
でもそれから1年経っても、やっぱり「カタコト」のまま。相手の言わんとしていることを理解するのに時間がかかるし、返答が即座に組み立てられない。すべてがたどたどしいままでした。
アラビア語も、学校に入ったときすでにカタコト話せましたが、卒業時もまだカタコトのまま。一体、学校に通った成果はどこにあるのか。一体いつになったらペラペラになるのだろう?と思っていました。
でも今回の経験で分かりました。自己判断の「ペラペラ」に達するのは、そう簡単ではないぞ、と。なぜならば「ペラペラ」かどうかの判断基準は、現在の自分の実力にあるからです。つまり、実力が上がると「ペラペラ」の基準も上がる。だからいつまでたっても到達できないのです。それはちょうど、月に近づこうとするのと同じこと。自分が歩くと、月も先へ先へと動いていく。走って近づこうとすると、月も一緒に走る。月はいつも一定の距離を保ったまま、決して近づくことはできないのです。
それでもたまに「今日はペラペラ喋れた」と思う日があります。飛躍的な成果が急に表れ、普段の自分からは考えられないような実力が発揮できたときです。そういうときは一瞬、ペラペラになった?!と錯覚し、もう言いたいことは何でも言えるような気がします。
でも、それはほんの一瞬のこと。翌日からはその「ペラペラ喋れた日」が新基準となるので、また失意の日々が続くことになります。そして「なんでいつまでたってもペラペラにならないんだろう??」とぼやくのです。
でもこれからは、がっかりしたとき「カタコト」も「ペラペラ」のうちと思うことにします。そして、広大な「カタコト」の海で「ペラペラ」の岸辺にたどり着く果てしなき夢を追うより、「カタコト」なりの日々の小さな進歩を喜ぼうと思います。