良くなるどころか、どんどん悪くなっていく風邪。ついに夫にまでうつし、「第三の犠牲者が出ないうちに、早く直せーーーーー!」という娘の目を盗んで本に手を伸ばしては、「そんなもん読んでないで、寝てなさーいっっっ!!」と叱られています。
確かに、読書より風邪を治すほうが先決ですよね。・・・でも面白いの。面白いからやめられない。あーもう、ビョーキです。
わたしが今読んでいるのは主に、英語の「グレイデッドリーダーズGraded Readers(以下GRと略す)」と呼ばれるものです。イギリスなどの出版社が英語学習者向けに出している本で、なるべく平易で一般的な基本語彙のみを厳選し、その語彙の範囲内で書くよう、努力がなされています。物語の進行上やむを得ず、基本語彙に含まれない語彙が出てくることもありますが、そうした特殊な語彙の使用は数的に制限されており、巻末や欄外に注釈やイラストによる説明などが付加され、その単語を知らなくても物語が楽しめるよう、工夫されています。
GRは小さな池のようなもの。ネイティブ向けに書かれた物語は、どんなに簡単そうに見える子供向けの絵本であっても、不意に見知らぬ虫の名前とかが出てきて足元をすくわれたり、という遭難事故が起きがちですが、GRの場合、特殊な単語の襲撃に突然見舞われることなく、知っている語彙の池の中でぽちゃぽちゃ平和に泳ぎつつ、少しずつ池を広げていくことができます。
GRの英語はもしかしたら、ネイティブスピーカーから見ると、少し折り目正しすぎる、堅苦しい英語かもしれませんが、ネイティブではないわたしにとっては、この知らない単語の大群に突然襲撃されたりしない安心感が、GRの一つの醍醐味です。
GRは、その内容によって、大きく二つに分けられます。一つは、GR用に新たに書き下ろされたオリジナルの物語、もう一つは、「リトールド(retold) 語り直し」と呼ばれる、原作をGR用に平易に短く書き直した物語です。
わたしが好きなのは、主に後者の「リトールド」です。長い歳月の中で淘汰されることなく読み継がれてきた粒ぞろいの古典。その古典のダイジェスト版を短時間に読めること、それがわたしにとってGRの第二の醍醐味です。おそらく、原書の日本語訳を読むより、短くリトールドされたGRを英語で読むほうがずっとラク。語彙厳選の気楽さに加え、短く書き直されているところが、GRの魅力です。
古典の中には文化がたくさん詰まっています。ここでいう「文化」とは、「合言葉」のようなもの。
たとえば。「桃太郎さん、桃太郎さん」と誰かが歌い出したら、ほとんどの日本人は「お腰につけたきび団子」と続けることができます。「カステラ一番」と言われたら「電話は二番」と返せる。こういう、言葉を介した文化が、古典にはたくさん含まれています。
たとえば
- 「リップ・ヴァン・ウィンクル」という名前でアメリカ人が想像するものは何か –> 時代遅れ
- 「スリーピー・ホロウ」という地名は何を表すか –> 幽霊の名所
- 「緋文字のA」と聞いてアメリカ人が思い浮かべるものは? –> 姦通罪
※ 矢印の後ろをドラッグすると答えがわかります。
そういう、アメリカで育った人なら、たいていどこかで読んだり、聞いたりしてきたことが日本にいながらにして分かる。これはすごい収穫です。なぜならそうした「文化」は、また別の小説で語り継がれ、或いは日々のジョークの中に生きつづけるに違いないからです。そして、そのジョークに触れたとき、日本人のわたしであっても、多くのアメリカ人と同じ感覚を共有し、同じ感覚で笑うことができるからです。
「HOLES(穴)」という映画に、こんな場面がありました。主人公の少年が「靴に住んでいたおばあさんは、さぞかし臭かっただろうなあ」と言って笑う。「靴に住むおばあさん」の童謡を知っていれば、この笑いに主人公の境遇や、複雑な思いが込められていることが直感的に分かります。靴が臭いかどうか以前に、このおばあさんは充分、貧乏で困っていた。少年も全く同じ。「泣きっ面にハチ」状態のおのれの姿を笑い飛ばしているのだ、と。
GRに収録されている古典はあくまで簡約版ですから、原典の香りがどの程度残っているかは疑問です。しかしそれをさておいても、こうした文化の「合言葉」を手軽に知れるGRの簡便さは、手放しがたい。
源氏物語を読まずとも「光源氏」と聞いてプレイボーイのイメージが思い浮かべられれば、まずはそれで充分。
それでも「光サマ」に恋焦がれ、「源氏物語」を原典で読みたくなったら・・・?
・・・そのときは、原典の古文が読めるよう、必死に勉強するしかないですね。
英語も同じ。今はこれで充分だけれど、いずれ、安全なぽちゃぽちゃ池から這い出て、冒険の旅に出ざるを得ない状況が、どのみちやってくるのでは、と思っています。