最近、アラビア語を読むのが面白い! ニュースと絵本を中心に、小説、昔話、向こうの教科書など、ジャンルを問わず、目についたもの・気が向いたものから読んでいます。
まだ量はそんなに読んでいませんが、アラビア語の垣根が日々少しずつ低くなっていくのが、肌で感じられます。
ひと月前は億劫だったアラビア語の本読みが、今では楽しみに変わりました。ニュースでさえ、読めると楽しいのね。知らなかったわ。
ちょっと前まで「読めない」と思っていたアラビア語、それが今は読める。
読めなかったときと読める今との違いは何かと考えると、「実力の違い」より「気持ちの違い」が大きい気がします。
つまり「実力がついたから読めるようになった」というより「気の持ちようが変わった」ことが大きいんじゃないか。前は「読めない」と思っていたから読めなかったけれど、今は「読める」気がするから読めるんじゃないか、と。
実際、読む力はさほど変わっていないように思う。ニュースにはだいぶ慣れてきてラクになりましたが、絵本や小説など、以前読んで難しいと感じたものは、今読んでもやっぱり難しい。
ただ、以前なら一目で「あ、無理」と思って諦めていたものを読み始め、まがりなりにも読み終えることができるようになった。だから実力というより気の持ちようの問題なのでは、と思うわけです。
でも「気の持ちよう」って、そう簡単に変えられるものではなく、むしろ実力をつけること以上に難しい部分もあったりなんかして。
「わたしは読める・・・読める・・・読める・・・」と100編唱えてみたところで、人間そう簡単に暗示にかかるものでもない。
結局のところ「読めない」を「読める」に変えるには「読めた」という実績を積むこと意外にないのではないでしょうか。簡単なものでいい、短くていい、ナナメ読みでいいから、とにかく「読んだ」実績を積み、それを徐々に引き延ばしていって、「読めない」を「読める」に変えていくしかないんじゃないかと。
その「実績積み」をこのひと月、やっていたわけです。
「読めない」が「読める」に劇的に変化する日が果たして本当に来るんだろうかと怪しみつつ、とりあえず読めそうなものから順に読んだ。それがよかったんだと思います。「読んだ」という実績を積み上げたから、「読めない」予感が「読めそう」な予感に変わってきたんだと思います。
スペイン語でガマくんを読んだことも微妙に関係している気がします。「ほとんどやったことのないスペイン語で本が読めるんだもの、4年もやっているアラビア語で読めないはずがない」と思えたのだと思います。
そして、ほとんどやったことのないスペイン語がどうして読めたかというとフランス語やドイツ語が読めたからで、じゃあどうしてフランス語やドイツ語で読めたかというと英語が読めたからで、つまり最初に読んだ薄い英語の本一冊からすべては始まったのではないかと。
よく「ポジティブ思考」がいいとか言われますが、わたしのようなネガティヴ人間にとって「自信」というのは呼び子を吹いたらどこかから飛んでくるような、そんな単純なものではない。
「わたしには無理、できない」と思うのは、そう思って最初から諦めていれば、実際ダメでも傷つかずに済むからで、我一流の防衛本能。根も葉もない自信なんか持って行動し、やっぱり無理だと知ってガッカリするのは、まっぴらゴメンです。
こういうネガティヴ人間が一歩を踏み出すには、だから、何か根拠がないと。
ごく身近なものから小さな半歩、あるいはその半分、更にそのまた半分でもいいから踏み出し、それを根拠にまた次の半歩、もしくは4分の1歩を踏み出すしかないのであります。