トルコ語

文法学習の落とし穴

 先日、瞬間トル作文で先生に直されまくった構文がありました。「when(~した時)」を使う構文です(瞬間英作文 part 2 lesson 3)。

She was very happy when she saw him again.
彼に再会した、彼女はとても幸せだった。

My father was very tired when he got back home last night.
昨晩帰宅した、父はとても疲れていた。

Does he always use this desk when he studies?
勉強する彼はいつもこの机を使うのですか?

 三つの文をそれぞれトルコ語に訳すと以下のようになるそうです。

  1. Onu tekrar görünce o çok mutlu oldu.
  2. Geçen gece babam eve geldiğinde çok yorgundu.
  3. Ders çalışırken o daima bu masa kullanır mı?

 どれも英語はすべてwhen、日本語は「時」なのに、トルコ語は、

  1. -ince
  2. -dik + 所有人称接尾辞 + (n) + de
  3. -ir/er + ken

 と、三つの言い方を使い分けるのですね。どれでも良いわけではなく、それぞれ棲み分けがあるようです。

 そういえばこれまでも、「~した時」と言おうとすると、直されることが多かった。最初の頃は「~の時」といえば-kenしか知らなくて、それを使っていたのですが、-inceに直されることが多く、そうか-inceなのかと思って次から-inceを使うと、また別の形に直される。なんでかなー?と思っていました。

 でもここで納得。形が3つもあるんじゃあ、そりゃあ直されるわけだ。当たる確率、3分の1だもの(笑)。

 どう違うのか質問すると、先生は以下のような文を3つ作ってくださいました。

  1. Annem gelince çok mutlu oldum.
    お母さんが来て、わたしは嬉しかった
  2. Annem geldiğinde ben uyuyordum.
    お母さんが来た時、わたしは眠っていた
  3. Annem gelirken bana sürt getirdi.
    お母さんは来る時、わたしに牛乳を持ってきてくれた

 んんんんーー?? 微妙に違うような、違わないような・・・^^;。

 その場で理解するのは無理と判断。レッスンが終わってからゆっくり考えることにしました。

 先生が書いてくれた3つの例を中心に、あちこちから例文をかき集め、30くらいの文例とニラメッコ。同じ文型を使う文を見比べて、共通点は何かを探りました。

 そしたらだんだん傾向が見えてきました。確かにどれも文の前半と後半が同期してはいるんだけれど、先生の挙げてくれた例で言うと、

  1. お母さんが来たことが、わたしが嬉しくなるトリガー。
  2. お母さんが来たことを「ひとつの時点」と捉えている。(フランス語の複合過去っぽい)
  3. お母さんが来る場面がスローモーションになっている。(フランス語の半過去っぽい)

という違いがあるみたい?

 この理解でいいかどうか確かめるため、以下のような文を作り、翌日、先生に見ていただきました。

Fakirken bir piyango bileti aldım. – 3
O piyangoyu aldığında gerçekten fakirdim. – 2
Piyangoyu alırken kazanmayı umuyordum. – 3
Piyangoyu kazanınca çok zengin oldum. – 1

貧乏だった頃、わたしは一枚の宝くじを買いました。
その宝くじを買った時、わたしは本当に貧乏でした。
宝くじを買う時、当たりますようにと願いました。
宝くじが当たり、わたしは大金持ちになりました。

 すると、どれも正しいとのこと。やったあ!

 あと、

2.Annem geldiğinde ben uyuyordum.(お母さんが来た時、わたしは眠っていた)

は、3の構文を使ってこうも言えるんじゃないかと思いました。

2-3´.Ben uyurken annem geldi.(わたしが眠っている時、お母さんが来た)

 これも正しいって! わーい! じゃあこの理解で、いいんだー!


 使い分けが分からない、と思ったとき、入門書や文法書も参照しました。でも文例がいくつか拾えた以外は、あまり助けになりませんでした。

 なぜかというと、文法書には「こういう用法があって、こういうときに使える」というのは書いてあっても、「こういうときは使えない」、あるいは、「こういうときは、これを使う」ということはなかなか教えてくれないからです。

 要するに、その用法の存在は分かるんだけれど、通用範囲が分からない。そもそも、この3つの言い方は、本の全部別々の項目に載っていて、比較されていない。だから棲み分けが分からない。

 本で文法を学ぶことは貴重なショートカットだけれども、万能ではないんだな。なぜなら文法学習は「一般法則 → 個々の事例」と、常に一方向だから。そう気づきました。

 たくさんの事例から帰納的に法則性を見つけ出し、一般化していく。そういう逆方向の視点で検証し、肉付けしていかないと危うい。そう思いました。

 「素人が自分で考えるよりも、専門家が書いた本のほうが安心」と思われるかもしれない。でも本に書かれているのは、あくまでその本を書いた人の理解であって、自分の理解ではない。だから参考にはなっても、ファイナルアンサーにはなりえない。

 言葉は極めて個人的なもの。ひとりひとり自分の言葉を持っている。習得度合いに関係なく、わたしの言葉はわたしのもの。だから人任せにはできない。人から与えられた訳語を後生大事に胸に抱くのではなく、粗くても不完全でも、自分の言葉で理解しないと。

 わたしには、自分の感覚で日本語を習得してきた実績がある。だからわたしは自分の感覚を信じます。

 とはいえ、自分で考えたことも、ファイナルアンサーではない。また新たな文例に触れるたび、これまでのイメージを検証し、修正していく必要があるでしょう。いつまでも、どこまでも。

 それは日本語でいつもしていること。同じことを外国語でもやればいいのね。

キャラバン・サライ

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