先日見たクルド語動画で、ひとつ面白いことに気づきました。
A: Navê te çi ye ? (あなたのお名前は?)
B: Navê min Azad e. (わたしの名前はアザドです)
A: Navê min jî Rojda ye. (わたしの名前はロジダです)
という場面。
この jî が問題。
「jî」というのは通常、英語の「too」とか「also」にあたり、日本語に直せば「わたしも~」という感じだと思うのですが、ここでは、相手が「アサド」と答えているのに、「jî」を使って「わたしはロジダだ」と別の名前を答えている。
つまり、ここで使われている「jî」は、「わたしも」というよりは「わたしは(といえば)~」と、むしろ違いを際立たせる役割を果たしていることになります。
なぜこれが面白いかというと、トルコ語の「de(もしくはda)」も同じような使い方をすることがあるからです。これも「わたしも~」という感じに使われることが多いのですが、ときどきアレッと思う使い方に出くわす。やはり「わたしは(といえば)~」という感じに使われている気がするのです。
「deにはそういう用法もあります」とはっきり本に書いてあるのを特に読んだことがあるわけでなし、気のせいかな、とも思っていました。でもクルド語の「jî」の使い方を見て、やはりトルコ語の「de」もそういう使い方をすることがあるのでは、という確信が強まりました。
「言語連合(Sprachbund)」という言葉があります。相互の影響により類似の言語学的特徴を持つに到った、必ずしも同じ系統には属さない言語群のことを指します。言語のるつぼ・バルカン半島の言語連合が特に有名です。
つまり、共通の祖語を持つ親戚同士でなくとも、使用地域が近いと言語はそれだけ影響しあうということ。トルコ語とクルド語も本来はまったく別系統の言語ですが、使用地域がかぶるので影響しあい、発想が似たのかな、と思いました。
もうひとつ、最近ボスニア・ヘルツェゴビナの先生から聞いた面白い話があります。
近ごろ英語圏のティーンエイジャーの間では「sick」という言葉の新しい使い方が流行っているのだそうです。本来ならば「病気の」という意味のところ、最近の若者は「カッコイイ」とか「素晴らしい」という肯定的な意味に使うのだそうです。
「うちの弟なんかも、そういう意味でよく使っているよ」と先生がおっしゃるので、
「あら、弟さんも英語を話すの?」と尋ねると、
「うん、英語も話す。でもボスニア語でも同じ使い方をするんだ」とのこと。
なんでも、ボスニア語で英語の「sick」にあたるのは「bolestan」という単語で、これも本来は「病気の」という意味なんだそうですが、近頃の10代はこれで「カッコイイ」を表現するのですと。
「日本語にもそういうの、ない?」と訊かれたので、「『やばい』がそれに近いかな」と答えました。
最近はインターネットがあるので、地域的に隣接している言語でなくとも、簡単にこういう影響作用が起るんでしょうね。特に英語の影響は顕著。でも英単語をそのまま借用するのではなく、発想だけ真似る、というのが面白いなと思いました。