アラビア語

フスハーかアーンミーヤか

 アラビア語を学ぶ際、フスハー(正則アラビア語)とアーンミーヤ(方言)、どちらを学ぶべきか。これはアラビア語学習者間でよく話題に上がる問いです。

 この問いに対し、わたしはうまく答えられませんでした。

 でも最近、わたしの中で答えがはっきりしてきました。

 その答えとは、

  1. ご縁があるなら、ご縁優先
  2. ご縁がなければ、とりあえずフスハー

です。

ご縁があるなら、ご縁優先

 たとえばイラク社会で生きて行く必要があるのであれば、まずはイラク方言の習得が急務でしょう。

 もしモロッコ人の友達がいて、モロッコ方言を教えてくれるというならば、そのチャンスを生かせば良いと思います。

 アラビア語を学ぶチャンスなんてそうそうあるものではないから、もしそういうチャンスに恵まれたなら、フスハかアーンミーヤか、どこの方言かなんて細かいことは気にせずに、そのご縁を活かせば良いと思うのです。

 アラビア語の方言は違いばかりが取り沙汰されますが、なんだかんだ言ってもどれもアラビア語。一つやっておけば、あとで必ず他の方言の習得にも役立つと思います。

ご縁がなければ、とりあえずフスハー

 でももし特にご縁がなく、選択に迷うのであれば、とりあえずフスハーをやっておいてソンはないと思います。

 なぜなら汎用性が高いのは圧倒的にフスハーだからです。イラクからモロッコまで、幅広く通じる。

 アラブ通の人は「フスハなんて、現地じゃ誰も喋ってないよ」とよく言います。わたしの浅い経験から言ってもそれは確かです。スーダンでもチュニジアでも、誰もフスハなんて喋っちゃいませんでした。

 でもこちらがフスハで話しかけると、通じはします。そして向こうも一生懸命フスハで返答してくれます。

 おそらく彼らにすれば、「時代劇に出てくる言葉で喋れ」と言われているようなものなのでしょう。聞けば理解はできる。でも自分で喋れと言われると話は別。喋れなくはないが、大変な集中力が必要。第一、照れ臭い。

 こっちが話しているのがフスハだと分かった途端、一瞬硬直し、それから大きく息を吸って返答。言い終えた途端、こらえきれずに吹き出す、なんてこともよくありました。

 でもフスハーを取り巻く状況は、ここのところ急速に変わって来ているように思います。若者を中心に、フスハーを喋れる人が増えている印象がある。

 エジプトの若者に確認したところ、その印象は正しいようです。なぜ若者はフスハが喋れるのか。理由を尋ねたところ、以下の二つの理由を挙げてくれました。

  1. テレビの影響 ニュース番組等に加え、アニメがフスハで放送されるので、若年層ほどフスハが得意。
  2. 学校教育の成果 学校でフスハを習うので、学校を出たての頃ほど、フスハの文法に関する記憶が鮮明。

 この方自身、流暢なフスハーを話します。ご自身は社会人ですが、妹の宿題を手伝うことが多いため、常にフスハーに触れているとのこと。

 ちなみに学校でフスハーの使用を強要されることはなく、友達同士、あるいは先生と話すときも、話し言葉は主にエジプト・アーンミーヤだそうです。


 日本でも昔は各地方でそれぞれの方言が話され、共通語の使用場面は限定的でした。けれどテレビの普及につれて、日常生活でも共通語が使われ始め、今では方言しか話せないという人は少ない。

 50年前に日本で起こった変化が、いまアラブ圏でも起こっているのだと思います。

 少し前まで、正則アラビア語が流暢に話せるアラブ人は少数で、映画や音楽の主要発信地であるエジプトの方言がアラブ世界の標準語の役割を担ってきました。

 しかしEメールやSNSなど文字による対話が増えた今、その役割はだんだんフスハーにシフトしてきていると感じます。様々な国のアラブ人に添削を受けていると、アラブ人同士で会話が始まることがあります。その場合、使われるのはフスハです。

 「フスハーを飛び越えて英語が共通語として使われるのではないか」という予測もありますが、アラブ人としての共通のアイデンティティを確立するには英語では役不足。英語も普及するとは思いますが、英語がフスハーにとって変わることは、少なくともここ数十年はないのではないかという気が、わたしはしています。

 アラブの街角で、フスハを話すと、周りは一斉にどよめきます。

 「あ、フスハーだ」「おい、フスハーだよ」というささやき声が四方八方から聞こえてくる。

 ネイティブに溶け込んでナチュラルに会話を交わしたいなら、フスハーではサマにならない。現代の日本で「それがしは~でござる」と言っているのと同じくらいの不自然さがフスハーにはあります。

 でもわたしはこれまで縁あってフスハーをメインに学んできたし、これからもそうするつもりです。

 なぜならわたしの意図は、多くの人と確実に意志を通じ合うこと。自然かどうかは割とどうでもいいからです。

スーダンにて アラブの水瓶
道行く人のため、門扉の脇に置かれた水瓶。喉が渇いたら誰でも飲んでよい。
スーダンでよく見かけました。アラブのホスピタリティです。
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