今から40年前、月に3回ほどロシア語教室に通っていました。先生はロシア人。一年半在籍しましたが、授業についていかれず、辞めました。
全くできないまま終わったので、教室に通ったのは無駄だったと長らく思っていましたが、外国語学習を本格的に始めて以降、考えが変わりました。
以下のような収穫があったからです。
- 巻き舌ができるようになった
- キリル文字が読み書きできるようになった
- ソビエト連邦の世相が垣間見られた
巻き舌は「練習すれば一週間で誰でも必ずできるようになる。その程度の努力ができないような生徒はいらない」と先生に言われ、破門怖さに必死に練習しました(過去記事「巻き舌の奇跡」参照)。
実際はわたしの場合、二週間かかりましたが、ロシア語だけでなく、アラビア語やスペイン語など他の言語にも使える一生モノのスキルを手に入れることができました。先生には大変感謝しています。
文字の読み書きも、2017年にロシア語を始めたとき、そのスキルの有難さを実感しました。特に筆記体の書き方。これもかつて「ノートは必ず筆記体で取るように」と先生に言われて練習した賜物でした。
わたしは先生が筆記体で板書するのを見るのが好きで、一周半するような小文字の А や О の書き方を今でもよく覚えています。ロシア語の筆記体は文字の繋げ方が独特なので(過去記事「ロシア語筆記体の繋げ方」参照)、ネイティブが実際に書くところを見られたのは貴重でした。
ソビエト連邦の世相に触れたことも、今となっては貴重でした。当時覚えた僅かなロシア語のうち、最初に覚え、今でも一番よく覚えているのはТоварищ(タバーリシ)。「同志」という意味で、「こんにちは、同志」「同志よ、ありがとう」など、挨拶にいちいちつけるのが当時の習わしでした。現在では、これ一つでロシア語話者をニヤリとさせられる絶好のソ連ネタとなっています。
またある時クラスメートから「ロシア語文通サークルに入らない?」と持ちかけられ、気軽に名前と住所を書いたところ、しばらく経って鉄のカーテンの向こうから手紙が届きました。相手は中学生の女の子。パンパンに膨れた封筒の中には、丸っこい文字で書かれた手紙のほかに小物が山ほど詰まっていました。レーニンバッジ、レーニンステッカー、レーニンプロマイド、レーニンメダル・・・。すべてレーニンの肖像がついたレーニングッズでした。
わたしも何かお返ししなくては、と思い、ロシア語の手紙に添えて中学生の女の子が喜びそうなサンリオグッズを封筒に詰めて送りました。
けれどもその返信はありませんでした。わたしの手紙は無事ついたのだろうか? もしかしたらソビエト連邦政府の検閲に引っかかり、届かなかったかもしれない、と気になりました。
その数か月後、またソビエトから手紙が届きました。またしてもレーニングッズのオンパレード。前とは違う女の子からでした。友達かなと思いましたが、住所は全く違い、最初がどこか南のほう、二通目はシベリアあたりでした。今回もサンリオグッズ入りで返信しましたが、その返信はありませんでした。
その後もときおりソ連からロシア語の手紙が届きましたが、この不思議な文通はいつも一往復で終わり。同じ子から二通目が届くことはありませんでした。
わたしの返信とサンリオグッズが、無事中学生の手に届いていたかどうか、知る由もありません。でも「これは文通という名の物々交換なんじゃないの? 珍しいシールや絵葉書を手に入れ、目的を達したと満足しているのよ、きっと」とあるとき誰かに言われ、わたしもそう信じることにしました。
ロシア語はとても難しい。さっぱり上達が感じられなくて、うんざりすることがしょっちゅうです。
それでもロシア語を続けているのは、こうした思い出があるからかもしれません。
わたしに手紙をくれたあの子たちは今どこでどうしているでしょうか。ソビエト崩壊後の激動の時代を生き抜いて、どこかで無事、逞しい中年のオバチャンになっていることを願います。