卒業試験の結果が発表され、めでたく卒業が決まりました。わたしたちのクラスは、卒業試験を受けた全員が合格し、11人揃って卒業することになりました。入学時に30名いたことを考えるとずいぶん少ないようですが、これでも例年に比べると、かなり多いほう。卒業にこぎつける人数は一クラスあたりたいてい一桁。二桁の大台は快挙です。
卒業を間近に控え、学校を去らねばならぬ寂しさに少々センチメンタルになっていた私でしたが、試験前のあわただしさで、その気分はすっかり消し飛びました。いやー、試験勉強がホントぉぉぉぉぉ~~~に大変だったので。
試験の10日ほど前、周囲がこぞって試験勉強全開モードに入り、わたしも遅ればせながら試験勉強に突入。それでもまだまだわたしの気構えは甘く、自分だけ置いてけぼりを食った気分になって、最後の二日は「何が何でもみんなと一緒に卒業したい」一心で、泣きながら頑張りました。それまでサボッていた自分のせいとはいえ、こんなふうに試験に追われるのはもう二度とイヤ!! 髪はボサボサ、肌はカサカサ、腰は痛いわ、ストレスで太るわ、見るからにボロボロ。無事卒業を勝ち取れて、今は心底ホッとしています。
本当に、この一週間はなんと長かったことでしょう。一週間前まで日常だったはずの授業は早くもすっかり「過去の良き思い出」。アルバムをめくるように「あんなことが楽しかった」「こんなこともあった」と懐かしんでいます。
この学校の授業は4科目に分かれています。「読解」「作文」「文法」「会話」の4つです。この中で、特に私が気に入っていたのは「会話」と「文法」です。
「会話」は先生がとても面白い方で、先生のジェスチャーを見ては、いつも笑い転げていました。お相撲さんみたいに大きな体はまるで楽器みたい。汽車の汽笛、楽器の音、動物の鳴き声など、ありとあらゆる音を出し、体の大きさを生かしたダイナミックなジェスチャーでよく笑わせてくれました。それに加え、オペラ歌手張りのコントラバスの持ち主。この美声を聞くのは心地よく、すごく苦手な「聞く」という作業がすこし好きになりました。尤も「美声すぎて聞いているうちに眠くなる」という人もいましたが(笑)。
科目としての授業内容がとにかく面白かったのは「文法」です。この学校の文法は市販の文法書とはだいぶ違っています。日本で出版されている文法書は日本人向けに書かれたアラビア語文法ですが、わたしたちが学校で学んでいた文法は、本来アラブ人が母語の理解を深めるためのアラビア語文法。アラブ人の子供が小学校や中学校で学ぶ文法とほぼ同じものでした。
日本語で書かれたアラビア語文法書のほとんどは、ベースに英文法があります。アラビア語の文法を極力英文法のパターンに当てはめていき、どうしても当てはまらない部分だけ念入りに説明するというやり方です。たとえば品詞の分け方は、名詞・動詞・形容詞・副詞・前置詞・接続詞・冠詞などなど、ほぼ英文法と同じ。「アラビア語には不定冠詞がない」という説明は、不定冠詞を持つ英文法をベースにしているからこそ出てくる表現です。そもそも冠詞などないのが当たり前の日本語ネイティブが、不定冠詞の有無を気にすること自体、考えてみればおかしな話ですよね。
一方、この学校の文法は「最初にアラビア語ありき」。他の言語を全く意識することなしにアラブ的な発想で、アラビア語で、アラビア語のしくみを学びます。たとえば品詞は、名詞・動詞・それ以外の3種類のみ。英文法にあてはめると形容詞や副詞に分類される語は、ここでは名詞に分類され、「名詞が文の中において形容的役割や状況説明的役割を担っている」と解釈されます。アラブ人にとって不定冠詞はないのが当たり前なので「不定冠詞がない」などという記述はあろうはずもありません。
英文法に則った文法解釈は、アラビア語は日本語よりもはるかに英語に似ているということ、日本人の大人ならたいてい英語を学んだ経験があるという事実を踏まえた「日本人による日本人のためのアラビア語文法」です。これは先達の方々の工夫の賜物であり、日本人が外国語としてアラビア語を学ぶ上で、最もハードルが低く、最も分かりやすく、最も手っ取り早い方法だと思います。
一方、わたしたちの学校では、わけのわからないアラビア語の文法用語とアラブ的発想の渦中にいきなり投げ込まれ、日本人として情状酌量されることもなく、アラブの子供たち同様「アラブ人によるアラブ人のためのアラブの文法」を叩き込まれます。だから難しいです。とっつきにくいです。ヘタすりゃ、説明されれば説明されるほど、何がなんだかわからなくなってくる。文法用語は初めて出会うものばかり。辞書にもろくに載っていやしない。そんな文法用語と格闘した末にやっと事態が飲み込めても、何か腑に落ちなくてつい「どうしてそうなるの?」と聞きたくなります。でも先生に向かって「リマーザー(なぜ)?!!!」と叫んでも、返ってくる答えはいつも同じ。「だってこれが文法だから(=そう決まっているから)」。どの先生もニヤリとして必ずそう答えるのです。ま、そりゃそうですね。日本語だって「なぜ『食べる』は下一段活用なのに、なぜ『飲む』は五段活用なのか」と尋ねられても、誰も答えられませんよね。ただ「そう決まっているから」としか。
こんな感じでしたから、消化不良を起こし「頼むから、文法だけは日本語でやってほしい」という人も多かったです。「一体、文法って何なの? 何のために文法なんか学ぶの?」という人もいました。
でも私は、この「アラビア語によるアラブ人のための、アラビア語の文法」が堪らなく好きでした。なぜって、異文化との出会いの連続だったからです。授業を受けるたびに新しい発想と出会う、仰天する、の繰り返し。初っ端はあまりに驚きすぎて、頭の中がハテナマークでいっぱいになり、だからつい「リマーザー(なぜ)?」と尋ねてしまうのですが、時を経るとだんだん「そういうものだ」と思えてくる。アラブ的発想に馴染んでくるのですね。その自分の変化がまた可笑しい。自分の中で何かが変わってゆくのがはっきりと感じられる。新しい発想が自分の中に根付いてゆくのがよく分かる。実に貴重な体験だったと思います。
アラビア語には、日本語とも英語とも違ったアラビア語ならではの発想が根底に流れていて、文法事項の全てはその源流に寄り添うように機能しています。ひとたびその源流に身をゆだねてしまえば全てがアラブ的にクリアになり、アラビア語を話したり書いたりするときにはアラブ的な発想で文を組み立てるようになります。そういうとき、英語も日本語も関係ない。あるのは自分とアラビア語だけです。
日本人の発想で英文法に則ってアラビア語を理解していたときには、自分の頭の中に大事にしまい込んだ僅かなアラビア語の束を外側から眺め、必要なものを取り出して使うような感覚でした。それが今は、無限のアラビア語が自分の周囲に散らばっているように感じる。それを内側から眺め、手を伸ばしてピックアップするのです。
最初はわけのわからなかった文法用語も、ひとたび分かってしまえば、実はものすごくシンプルでダイレクト。アラビア語らしく、モノの本質をズバリと言葉にしたものばかりです。日本語や英語に訳さず、アラビア語のままで受け入れると、アラビア語の言葉の本質を直接掴み取ることができます。
たとえば、アラビア語の名詞には3つの格があります。「رفع(ラフウ)」と「نصب(ナスブ)」と「جرّ(ジャッル)」です。これらは日本語の文法書ではそれぞれ「主格」「対格(目的格)」「属格(所有格)」と訳されます。たとえば「私はアフマドの家を訪れた」という文では、「私は」は主格、「アフマドの」は属格、「家を」は対格で表現されます。さてこの3つの格の中で、基本となる格はどれだと思いますか? 主格でしょうか、属格でしょうか、対格でしょうか。
たぶん日本人なら、たいていの人が「主格」と答えると思います。なんてったって「主な格」ですからね。これが主役でなくてどうする、って感じ。英語でも「Subjective」、いつだって基本構文はSVOとか、SVCとか、Sから始まってるし、有名な代名詞呪文の I / my / me / mine だって「主格」である I が最初に来ますしね。実際、日本で書かれたアラビア語辞書の見出しは主格形です。名詞はすべて主格形で覚えておき、時と場合により対格や属格に直す、というのが、大方の日本人学習者がとる方法ではないかと思います。
でも、私が思うに、アラブ人の考える名詞のデフォルトは「ナスブ(対格)」だと思います。アラブ的文法では、動名詞は必ず「ナスブ」で示されますし、そもそも「ナスブ」「ラフウ」「ジャッル」の言葉本来の意味は、それぞれ「置く」「持ち上げる」「引く」です。おそらくアラブ的には、まず全ての名詞を「置いて」みて、文章の骨格となる部分(つまり主語)だけ「持ち上げて」目立たせ、イダーファ(つけたり)部分は逆に「引いて」下げる。そんな感じではないかと思うのです。
これはあくまで、わたしが学校の文法の授業を受けていて感じたイメージです。だから、だれか偉い学者がそう言っていたとか、そういう信憑性はありません。でも友人によれば「知り合いのアラブ人も同じようなことを言っていた」そうなので、そう見当違いでもないかな、と思っています。
実際アラビア語では「ラフウ」と「ジャッル」の使用箇所は限られており、それ以外の広範囲な部分では何でもかんでも「ナスブ」です。目的語だけでなく、ハール(副詞的用法)も、タムイーズ(差別化用法=二重主語)も、ザルフ(時・場所に関する補足)も、アジュル(目的に関する補足)も、み~~んな「ナスブ」!! この「ナスブ」を「対格」という日本語や「objective」という英語に置き換えてしまうと途端に見えなくなってしまうものが、アラビア語のままなら見えるのです。
・・・ほんの一例を示したつもりが、説明が長くなってしまいました。
とまれ、わたしがこの学校で学んだのは、なにより「外国語を学ぶことの面白さ」です。外国語を学ぶということは、違った発想を学ぶことなんだ、と知りました。外国語で話すのは、その国の発想で物事を見ることなのだ、と。
だからこそ、わたしは今、もっと違った言語にたくさん触れ、違った発想をたくさん知りたいのです。アラビア語にもっと触れたい気持ちと同じだけ、いや、もしかしたらそれ以上に、他の言語に触れたい。できればアラビア語同様、その言語で書かれたその言語独自の方法でその言語を学びたい。外国語が「できるようになりたい」というよりは、ただただ「知りたい」。違った発想の渦中に自分を置きたい。そして自分の反応を見たい。もっともっと様々な発想で世界を見たい。
卒業は許されたとはいえ、卒業試験の結果は決して満足のいくものではありませんでした。ホント言うと、悔しくてしょうがない。こんな悔しい思いのまま終われるかっ!!って感じ。だから今後もアラビア語は続けます。でも他の言語も始めます。