外国を旅していると、ときどき目の前で、異文化の扉が開くような気がする瞬間があります。重たい扉が突然、ゴゴゴゴ・・・と音を立てて開く。
最初にそれを感じたのは、中学生の頃、ホームステイに行ったアメリカです。当時わたしは「ラボ・パーティ」という、英語で劇をする活動をしていて、アメリカへ行ったのも、そのラボの国際交流でした。
劇の題材の多くは昔話や古典です。グリム童話やペロー寓話、ピーターパンとかロミオとジュリエットとか。
原典そのままではなく、簡単に書きなおしたものでしたが、それでも物語は長い。全部覚えられるはずもなく、好きなセリフ、気に入ったフレーズだけが耳に残りました。
歌に「サビ」の部分があるように、物語にも覚えやすい決まり文句みたいな部分があるんですね。桃太郎で言えば、「おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました」とか「どんぶらこ、どんぶらこ、と流れてきました」という部分。こういう印象的でゴロのいいフレーズは、案外ラクに覚えられるのです。
さて、アメリカでわたしがお世話になった家では、金曜の夜がホームパーティの日と決まっていて、この日はすべてが特別でした。夕方になると、普段のジーンズを脱いでワンピースに着替える。普段は使わないダイニングルームのキャビネットから、普段は使わないすべてが同じ柄で揃った食器を取り出し、普段は使わない正面玄関からお客様をお迎えし、普段食べない分厚いステーキを、普段は使わない銀のカトラリーで食べるのです。
ある金曜の晩のこと、「ラボでどんな活動をしているの?」とお客様にきかれ、英語でうまく答えられなかったので、こういうのをやってます、という例として「ジャックとまめの木」のフレーズを言ってみました。雲の上の宮殿に住む人食い巨人が、ジャックのにおいをかぎつけて言うセリフです。
Fee-fi-fo-fum,
I smell the blood of an Englishman
Be he alive, or be he dead
I’ll have his bones to grind my bread匂うぞ、匂う 確かに匂う
イギリス野郎の美味そうな匂い
生きてようと 死んでようと お構いなし
骨を粉にすりゃパンになる
ところがここに、わたしが予期しない展開が待ち受けていた!
わたしが「Fee-fi-fo-fum….」と言いかけたとたん、そこにいた全員が一斉に「I smell the blood of an Englishman !」と一緒に続けてくれたのです。わたしが聴き覚えたのと全く同じ抑揚で。
これにはびっくりしました。「山」と言ったら「川」と答える。そんな感じ。「これは一種の合言葉だ」と思いました。
もう、そのときの嬉しさといったら・・・! アメリカという大きな国が自らやってきて、その分厚い扉を開け、東洋の小娘を受け入れてくれた、そんな気分でした。
このフレーズの唱和は誰にとっても面白かったらしく、この日のディナーはそこから「唱和」合戦になりました。たとえば何かスペイン語。たぶん日本で言えば「This is a pen」「Is that a book?」「Yes, it is」のような、学校で最初に習う例文だったのでは、と思います。
誰もが知っている歌やフレーズ。多文化の国アメリカにも、そういう文化の共通項があるんですねえ。そしてそれを唱えることは、自分のルーツの再確認であり、肯定であり、誰にとっても嬉しいものなのだと、その時知りました。
その体験が非常に印象的だったので、日本に帰ってからはマザー・グースを覚えることに没頭しました。これもきっと、合言葉の一つになりうるだろうと直感したからです。
そしてその直感は間違っていなかった。今でもイギリスやアメリカの小説を読んでいると、マザーグースからの引用やパロディに、ニヤリとすることがあります。イギリス人やアメリカ人と同じところで笑えるわけで、人が相手ではないけれど、これも扉が開いたと感じる瞬間です。
童謡・童話のみならず、こうした合言葉は、古典や伝説、聖書にも潜んでいます。
たとえば、いま読んでいる子供向けのシリーズには、伝説上の人物が出てきます。伝説では悪玉なのに、この本では善玉。今後、やっぱり悪い奴だったという展開になるのか、それともこのままいい人で、伝説が歪曲しているという解釈になるのか。先が楽しみ~^^。伝説を知らなければ気付かなかった楽しみです。
また、こんなこともありました。あるとき、近所にカナダ人の一家が引っ越してきました。まだ娘たちが幼児だった頃のことで、その一家にも同年代の女の子・男の子がいたことから、公園で話しかけました。
子供の名前をたずねると、女の子のほうは「アン」だとのこと。なので、こう聞き返しました。
Anne with an “e” ? Or without the “e”?
「アン」って、Eつきのアン? それともEなしのアン?
全部中学で習う単語ばかり。とっても簡単^^。
でも効果はテキメン。その人は一瞬きょとんとしましたが、すぐに笑って「eつきのAnneよ」と答えました。
実はこれ、カナダの名作「赤毛のアン」からの引用です。赤毛のアンの本当の名前はAnn、つまり最後にeがつかない「アン」なのですが、彼女はこれが気に入らなくて「わたしを呼ぶときには、eつきで『Anne』って呼んでね」と言うシーンがあるのです。発音はどちらも同じなのですが。
わたしがこんな質問をしたのは、答えを知りたかったからではない。カナダから来た人に、カナダに親しみを持っていることを、それとなく示したかったからです。
その彼女とはその会話がきっかけで親しくなりました。
「アン」という名前の人は多く、他にも「アン」という名前の人と知り合ったことがあります。そのときは相手がアメリカ人で、隣に男性がいたので、
So, you are Andy, right ?
じゃあこちらは・・・アンディさん?
これも最初はキョトンとされましたが、「ラガディ・アンとアンディじゃないの?」と言うと、笑ってもらえました^^。限りなくベタですが、このくらいベタなほうが、はずしにくい。
わたしのウケ狙いの性分は外国語で喋るときも変わらず、こういうことをフッと思いついては、口に出してしまいます。とはいえ難しいことは言えないので、ごくごく簡単な英語ばかり。しかもブロークン^^;。それでもたいてい通じ、ニヤリとしてもらえます。ラボをやっていたので英語圏の文化とは付き合いが長く、接点も多いので、ネタには困らない^^。
でも他の言語となると、そうはいきません。意識的にネタを仕込まないと、さすがに出てこない。
なので旅行にいく際には、使う場面があるんだかないんだかわからない、こういう言葉を、意識的にいくつか覚えて出かけます。わたしの中の重要度からいくと、「こんにちは」「ありがとう」の次に大事。そして旅先では、隙あらばこういう合言葉を使ってやろうと、いつも虎視眈々とチャンスを狙います(笑)。
とはいえ、そういうチャンスはそうそうあるものではなく、結局不発なままに帰途につくことも多い。・・・というか、それが大半。それでも次回こそ、と懲りずに準備します^^;。
こういうフレーズは何か用を足すのに便利なわけでもなく、何が起こるか起こらないか、火をつけてみるまで分からない未知の花火玉のようなものです。使い方次第で、やけどを負う可能性すらある。だから辞書にも載っていないし、語学テキストにも出てこない。語学力とは別のところにある文化の切れ端です。
でも、どんな反応が返ってくるか分からないからこそ、わたしは人と対話したいと願うのです。言葉が実用を満たすツールに終わってしまっては、つまらない。
だからわたしは懲りもせず、こんな隠し玉を忍ばせて、旅に出かけるのです。