先月、友だちがヒッポファミリークラブのCDを数枚貸してくれました。ヒッポファミリークラブというのは会員制の国際交流サークルで、かつて会員だったとき数十ヶ国語で収録された物語のCDセットを購入したのだそうです。彼女は一年以上も前からそのセットを一式全部わたしに貸してくれると言ってくれていたのですが、一度にそんなにたくさんのCDを借りるのはなんだか怖い気がして、今回、とりあえず数ヶ国語だけ、お試しに借りました。
ところがこれが、わたしのストライクゾーンにジャストミート。「絶対気に入ると思うんだけど」と友だちが言っていたとおりでした。これを借りて以来、毎日のようにインドネシア語版のCDを聞き、インドネシア語検定に備えました。検定試験を終えてからは、フランス語とアラビア語を浴びるように聞いています。
これらのCDは、言語は違っても、内容は全部同じです。「ソノコ」という名の中学生の女の子が一ヶ月、アメリカの農家にホームステイに行くお話です。
最初にこの話をCDで聞いたとき、わたしはとても懐かしい気持ちになりました。これは絶対知っている世界だ、と直感しました。いままで「ヒッポファミリークラブ」というサークルには全く係わったことがないのに。
確信を持って調べてみると、「ヒッポファミリークラブ」は「ラボ教育センター」から分かれた団体でした。なるほど、「ラボ教育センター」というのは、わたしが子どもの頃メンバーだったサークルです。ラボとヒッポは多分に似た雰囲気を持っていて、だから懐かしさを感じたのでしょう。
小学6年生から高校1年までの5年間、わたしはラボの会員でした。ラボの国際交流で、中学生のとき一ヶ月間アメリカの田舎町にホームステイにも行きました。(※「中学生日記」参照)。 そう、ちょうど「ソノコ」がヒッポの国際交流でアメリカへ行ったように、同じ年頃のとき、わたしも「ラボ」でアメリカへ行ったのです。
アメリカで感じたことは、全くソノコと同じ。ありとあらゆるものが日本よりも大きいことに驚き、英語が通じることに喜び、通じないとがっかりし、帰国の際には別れが辛くて泣きました。ちょっとしたことにも、ソノコの表現はやたらとオーバーですが、当時のわたしの日記もそんな感じ。これは昭和ならでは時代のスタイルもあるかもしれません。
ラボの活動は、英語の物語テープを家で聞き、その成果を週に1度、テューターと呼ばれる先生の家で発表しあうものでした。具体的には、英語の歌にあわせて歌ったり踊ったり、或いは英語で劇を演じたりします。そのほかにも、月に1度や二度はどこかしらで「交流会」と呼ばれる大きな催しが、公民館や学校の体育館を借り切って行われました。
ラボの面白さは、どんどん世界が広がることです。あくまで「ラボ」という枠組みの中ではありますが、仲間が仲間を呼び、どんどん友だちが増える。仲間が増えると智恵も増え、面白いことを発見したり考案したりして、楽しさが増します。
でもわたしにとって、それにも増して楽しかったのはテープそのものです。ラボのテープは音声だけなのに、臨場感たっぷり。映像がない分、想像力が翼が生えます。テープは英語が基本ですが、トラックによっては、日本語訳が入っていて、この日本語訳が素晴らしかった。物語自体はよく知られている童話が多いのですが、日本語訳は詩人の谷川雁が練り直したものです。わたしはこの見事な日本語を聞いて大きくなりました。今でもそれはわたしの誇りです。
この日本語を聞いた回数はそれほど多くはありません。日本語訳の入ったトラックを2度か3度聞いたら、そのあとはひたすら英語のみのトラックを聞いていたので。それでも、表情豊かなこの日本語は英語以上にしっかりと記憶に刻み込まれ、30年以上たった今でも、印象的なフレーズの数々が口から零れ落ちるように出てきます。
わたしがラボの会員だった頃、ラボはとても勢いがありました。会員数は右肩上がり。広大な代々木公園を借り切って6万人集会を開いたこともあります。長野には専用の広大なキャンプ場があり、夏休み・冬休み・春休みのたびに、そこでも活動が行われました。日本中から集まった仲間とアッという間に仲良くなり、3日後、家に帰るときには涙ながらに別れました。アメリカとの国際交流も、まだ海外旅行さえ一般的でなかった当時、毎年数百人という規模でした。
わたしはラボが好きで好きで、だからずっとこんな日が続くのだと思っていました。当時まだ大学生・高校生は数が少なく、ちびっ子たちの尊敬を集めていました。わたしもラボの会員のまま大学生になって、小さい子たちから慕われるのを夢見ていました。
ところが。あるとき突然、ラボは3つに割れました。母がテューターをしていた関係で、わたしはその異変にすぐに気づきました。母のところにはあっちからこっちから、毎日のように長い電話がかかってくるようになりました。学校から帰ると、いつも母は電話に張り付いて、深刻な顔をしていました。ラボから分かれて新たな一歩を踏み出した各団体は、それぞれが仲間集めに必死だったのでしょう。そこでは壮絶な国取り合戦が繰り広げられていたのでした。
噂では、それまでラボを率いていたトップメンバーの意見が割れ、2つの団体がラボから分かれたということでした。一つは「十代の会」。母からの又聞きによれば、これまでもラボが重視してきた「表現」を更に深め、「劇」を通して、言葉だけでなく、体全体による表現を目指していたようです。
そしてもう一つは「ヒッポファミリークラブ」。もっとも、当時は違う名前だったと思います。ラボとヒッポに関係があるなんて、わたしもつい最近まで気づきませんでしたから。ヒッポは「英語」だけでない「多言語」を柱としました。当時ラボでも多言語志向はすでに始まっていました。ラボテープでスペイン語や韓国語を聞いたことを覚えています。とはいえ当時は「英語だけでも大変なのに、なぜ他の言語までやらなくちゃいけないの?」と思ったものでした。
残った「ラボ」も混乱を来たし、一時は本部に電話も繋がらない事態になりました。リーダーを失い、多くの会員を失い、ラボはこれからどうなってしまうのだろう?と不安でした。分かったのは、かつてのラボはもうないんだ、ということだけ。かつてのテューター仲間からの電話攻勢に疲れ果て、母は悩んだ末、ラボのテューターを辞めました。そしてわたしもラボをやめました。
「ラボ教育センター」はその後落ち着きを取り戻し、今でも順調に活動を続けているようです。昔のラボテープは専用の機械でしか再生できないものでしたが、今はラボテープもCDに変わったようで、時代の流れを感じます。
わたしはもう何年もラボのテープを聞いていません。子どもが幼い頃は一緒に聞いたりしたものですが、専用の機械が壊れるたびに修理に出しを繰り返し、ついにわたしはラボテープを聴くことを諦め、数年前、50本ほどあったテープを全て処分したのです。
最近友だちに借りてヒッポのCDを聞いたとき久々に、楽しかったラボの世界が蘇りました。ヒッポのCDはラボテープによく似ています。音楽の使い方、間の取り方・・・。ラボテープと同様、臨場感たっぷりで、想像力に翼が生えます。どの言語でも同じ音楽が同じタイミングで入るので、初めて聞く言語でも物語のすじが追え、楽しく聴けます。
違った言語で聞く同じ物語は、少しずつ雰囲気が違います。各言語で同じセリフを喋るソノコの性格も、少し違ってみえる。明快に喋る、明るく素直なインドネシア語のソノコ。アラビア語のソノコは甘ったるい口調のオシャマさん。ハスキーなフランス語のソノコはやぶ睨みでニヒルな子のイメージです。
ああ、イタリア語のソノコ、ロシア語のソノコ、中国語のソノコ、これから何人のソノコに会えるのでしょうか。
わたしは一生の楽しみを見つけました。一生かけて、たくさんのソノコに出会う楽しみです。30年前「なぜ他の言語までやらなくちゃいけないの?」と思った女の子は、今では、この多言語世界がたまらない。これからたくさんのソノコに出会えると思うと、心が躍ります。
ソノコはずっと前から少女のまま、わたしが多言語に目覚めるのを待っていました。そしてわたしは今やっと、ソノコを見つけました。これからは、一人一人のソノコとゆっくり出会い、じっくり付き合っていきたいと思います。
ソノコ! どうぞよろしく! ずっとずっと一緒だよ!