インドネシア語

インドネシア語の魅力2 主観的表現

 現在学校に通って学んでいるアラビア語はとても緻密な言語です。その文法はモスクの丸屋根を彩るアラベスク模様のごとく美しく、洗練されています。もともと詩を吟じるために整備されただけのことはあります。こんなに美しく磨き上げられた文法はおそらく他にないでしょう。これこそがアラビア語の最大の魅力なのですが、ただ、それを扱うほうにもそれなりの熟練が要求されるわけで、メンドクサイといえば、メンドクサイ言語ではあります。

 その点、インドネシア語はとてもラク! 時制だの、性別だのに煩わされることなく、気軽に使える言語です。海のシルクロードにおける要衝の地で長らく商用語として使われてきただけあって、こちらも別の意味で洗練されています。文法はとても簡便。しかも、アラビア語にはない表現の膨らみがあります。

 アラビア語はどちらかというと客観的で正確な描写に適しており、きっちりとした割り切り型の言語です。さりげなく主観を入れ込むのが苦手。曖昧模糊とした表現を愛する日本人のわたしからすると、もう一つ、自分の感覚を表現しきれない部分があります。

 たとえば「このお茶は熱すぎる」という言い方が、アラビア語ではできません。「~すぎる」という表現がないのです。そこで「このお茶はとても熱い」という言い方で代用するのですが、やはりニュアンスは違いますよね。この表現では「熱い」ことに対する話者の不満や困惑が表現できないからです。

 ところがこの辺がインドネシア語は得意なんですねえ。「~みたいだ」とか「~だそうだ」といった、情報の出所が明らかでない無責任発言も簡便に言い表せますし、「やや甘い」「かなり甘い」「甘すぎる」「甘みが足りない」など、形容の程度・度合いを示す表現も豊かです。

 更に感動してしまうのが、「~してくれる」に似た言い方ができることです。「ママが本を読んでくれた」という日本語をアラビア語に訳すとしたら、「ママはわたしのために本を読んだ」という感じになり、もうひとつ「くれる」という言葉のもつボランティア感(?)やねぎらいのニュアンスを表現できないのですが、インドネシア語にはそうした感情の受け皿があるのです。

 ただし、インドネシア語のその受け皿は、主語が誰でも同じです。日本語の場合、主語が「わたし」に変わると「わたしはママに本を読んであげた」のように「くれた」ではなく「あげた」になり、更に相手が目下であれば「わたしは弟に本を読んでやった」のように変わりますが、インドネシア語は一つの言い方で済みます。その簡便さがまた魅力です。

 また、インドネシア語には時制がありません。つまり、過去も現在も同じ言い方です。不便ではないのかな、と最初は思いましたが、そんなことはない! 「もうした」「まだしていない」「まだしている」「しているところだ」「したばかり」など、現時点との時間的位置関係を示す表現が揃っているので不自由はありません。そればかりか、そこには若干の主観まで含める余地があります。たとえば、「彼は寝ているところだ」と「彼はまだ寝ている」とでは、「彼が寝ている」客観的事実に違いはないけれど、後者の「まだ」には話者の主観が若干含まれています。「そろそろ起きてもいい頃なのに」という。この「若干」というところがミソ。声高に主張するほどではないちょっとした主観を言葉に混ぜ込むのは、日常的に日本語でしていることです。日本人はそういう表現に慣れているので、それが外国語でもできると気持ちが良いわけです。

 日本語の起源はナゾに包まれていますが、インドネシア語と同じオーストロネシア語族に属するという説もあるそうです。そう言われてみれば、「う~ん、もしかしたらそうかも」という気がします。インドネシア語と日本語では語彙は全く異なるし、文法も違いますが、根本的な発想が似ている気がするからです。オーストロネシア語族は太平洋一帯の島々に広く言語で、地図を広げてみると、日本もその中に入っているほうがむしろ自然ですし、距離的にあんなに近いフィリピンのタガログ語とインドネシア語が「どうしてこんなに違うの?」と思うほどに違っていることを考えると、もしかしたら・・・と思ったりもします。

 まあ、異なる語族に属する西洋言語とアラビア語だって、日本語との違いを思ったら、従兄弟くらいに思えますけどね。今まで英語の親戚言語とばかり付き合ってきたわたしからすると、インドネシア語はこの親近感が大きな魅力です。

 ・・・さあ、いい加減、腰も治ってきたことだし、そろそろアラビア語に戻らないと。学校を卒業するまでは、しばらくインドネシア語はおあずけにすることにします。

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