【 ブルネイ旅行記16 カンポンアイール 】
ブルネイ川の上に作られたカンポンアイール(マレー語で"水の村"の意)は、 世界最大の水上集落だそうだ。 東洋のベニスと呼ばれるこの集落は14世紀頃からここにあり、 今なお3万人もの人々が住んでいるという。 つまり、ブルネイの総人口の約1割、首都バンダルスリブガワンの人口の約3割が 水の上に住んでいることになる。
ブルネイ川はバンダルスリブガワンの東側を流れる比較的大きな河川で、 集落はその両岸にある。 だから川のこちら側にも集落はあるのだが、 「カンポンアイールに行きたい」と言ったら、 カエリさんは当然のようにうさぎたちをブルネイ川の船着場へと案内してくれた。 おそらく、向こう岸の集落の方が規模が大きいのだろう。
でも、不思議なことが一つあった。
案内されたのが、地元の人たちで賑わう船着場ではなく、
そこから少しばかり離れた別の船着場であったこと。
日よけの屋根や待つためのベンチがあり、ちょっと特別な感じの船着場だ。
こんな閑散としたところで待っていて、本当にボートが来るんだろうか――。
とうさぎは心配になった。
けれど、その心配は杞憂に終わった。 しばらくすると、華やかな水しぶきを上げて、うさぎたちのところにも、 ボートが一台やってきたのだ。 公園の池のボートと大して変わらないボディ。それにモーターを積んでいる。 これが世に名高いブルネイ川の"水上タクシー"である。
よしよし、なかなか良い風情だぞ――。
そう満足して、舟に乗り込もうとした途端、また別の不安が襲ってきた。
行きはいいけれど、帰りはどうやってこの場所に帰ってくればいいのだろう。
と。 ブルネイ川には橋がない。 向こう岸からこちら側に帰ってくる唯一の手段は、 俗に"水上タクシー"と呼ばれる渡し舟だけだ。
うさぎは、車の方へと帰りかけたカエリさんを引き止めて尋ねた。
「この船着場は、なんていう名前なの?」
「向こう岸のカンポンアイールを歩いたあと、
どこでどうやって水上タクシーを捕まえればいいの?」などと。
うさぎがカエリさんを質問攻めにしている間、
水上タクシーのおっちゃんはじっとそこで待っていた。
ちょっと離れた船着場には、他にたくさんお客がいるのに。
どうしてそっちへ行かないで、ここで待っているのかな?
自分のためにそこで待機してくれている渡し守のおっちゃんに気兼ねしつつも、
うさぎは帰りの足が不安で、カエリさんにあれこれ尋ねた。
カエリさんはうさぎのゴチャゴチャをきいているうちに、 これは自分もついていった方がいいと判断したらしい。 車を駐車場にちゃんと止めなおして、一緒についてきてくれることになった。 その間も、船頭のおっちゃんはじっとそこで待っていてくれた。
さて、カエリさんが駐車場から戻ってくると、 皆はゆらゆら揺れる小舟に危なっかしい足取りで乗りこんだ。
モーターのレバーを入れると、舟は水を切り裂いて走リ始めた。
船体は小さいけれど、モーターがついているので、速い速い!
水しぶきを高くあげ、風を切って、えらい勢いで河を縦横無尽に走る!
このスピード感と、髪をなびかせる心地よい風に、みなはもう大喜びだ。
河の向こう岸には、河に打ち込んだ杭の上に、家がたくさん建っていた。
その家々の合い間の水路を通り、粗末な橋をくぐり抜け、舟はさらにひた走る!
船頭のおっちゃんはわざと鋭角に角を曲がる。
そのたび舟は右に左に大きく傾ぐ。それがまた楽しい。
角を曲がるときも、細い水路に入るときも、
舟は全くスピードを緩めることがなく、全力疾走だ。
水の上を走ること、ほんの数分。
船頭のおっちゃんは、
船着場と言うにはあまりにも粗末すぎる1本のハシゴの下に舟を寄せ、
そこでこの楽しいクルージングは終わった。
カエリさんは、彼に45分ほどで迎えにくるようにいい、
うさぎたちは水面ラインから水上集落の道の高さまで、ハシゴを登った。
そうか、このおっちゃんに同じ場所まで迎えにきてもらえばよかったんだ――。
うさぎはお手本を示されてはじめて気がついた。
水面から1メートルほどハシゴを登ったところは、カンポンアイールの街の一角で、 細い路地に面して、家々が立ち並んでいた。 中には"空き地"もある。 そこはただ杭が川に打ち込まれただけの状態で、河の水面が見えていた。
さあ、ここからどこへ行こう?
うさぎたちが川のうえに渡したガタガタの桟橋の上で立ち往生していると、
カエリさんが慣れた様子で船着場から一番近い家の窓から中を覗きこみ、
中にいる二人の若い女性にマレー語でなにやら話し掛けた。
彼女たちはカエリさんに二言三言言葉を返し、家の奥の方に向けて軽く顎をしゃくった。
するとカエリさんは頷き、率先してひさしのある路地の奥に入っていった。
きっと「この家の主人は在宅しているか」と尋ねていたのに違いない。
家に沿ってひさしのついた薄暗い通路を奥へと進むと、勝手口らしき入り口があり、 中は厨房だった。 カエリさんが中にいる中年の女性に声をかけると、 彼女は愛想よく笑い、うさぎたちを家の中へと招き入れてくれた。
厨房は土間で、かなり広かった。 10畳くらいはたっぷりありそう。 まるでレストランの厨房みたいだ。 電子レンジやオーブンらしきものだけで3つ4つある。
厨房の隣りは居間らしく、厨房で靴を脱いで居間に上がった。
居間は細長い部屋で、その壁沿いにずらりと並んだソファでは、
この家の若者が寝転がって本を読みながらくつろいでいた。
その前をぞろぞろと通りつつ、うさぎたちは、突然お邪魔したことに恐縮した。
居間を通り抜けると、こんどは広い応接間があった。
かなり広い。20、30畳くらいあるだろうか。
オレンジのカーテン、淡いピンク色の壁、真っ赤な段通、色とりどりの椅子やソファ‥。
色とりどりの賑やかな部屋だ。
それに家具が多い。
両脇をソファに囲まれたティーテーブルの列が2列あり、それで部屋が埋め尽くされている。
家具はおしなべて西洋風だけれど、クラシック調、モダン調と、様式は様々。
天井ちかくには凝ったケーシングが施され、真っ白なシーリングファンが回っている。
壁にはサルタンとそのお二人の夫人の写真が飾られている。
テーブルの上にはお菓子の入った蓋付きの容器がずらりと並べられていた。
このソファの一角に勧められて腰掛けると、
お菓子の容器の蓋が開けられ、飲み物が振舞われた。それは甘い麦茶だった。
「さあ、どうぞ召し上がれ」といわれて、お菓子を一つ二つ、遠慮がちに口に入れた。
美味し〜い♪
お菓子はどれも、とても美味しかった。 色をつけて一口大にカットしたカステラ、ほろりと軽い口当たりのクッキー、 それに、ほんのり甘く味付けされた揚げたお菓子など。 全部食べていいと言われたら、お皿をカラにしてしまいそうだ。 でも、初めて訪れた家で、そんなことができるわけがない。 うさぎたちは初めて訪れた家で、どうしてよいものやら分からず、 ただぼーっとソファに座って大人しくしていた。
するとしばらくしてこの家のご主人が、
6才くらいのなんとも可愛らしい女の子を連れて現れた。
彼女の名前は‥えーと‥。
二度尋ねたけれど、長くて難しくて、とても覚えられないような名前だった。
うさぎはおみやげとして、扇子と富士山の絵のついたカードを彼女に渡した。
この家のご主人はあまり英語が得意でない様子。 カエリさんとはマレー語でなにか喋っているものの、うさぎたちには全く分からない。 彼はこの突然の来訪者をどう思っているのだろう? それがちょっと気がかりだった。
だけれどカエリさんはこの家の勝手知ったる様子。
他人の家のことなのに、
「家の中の様子を写真に撮っても構いませんよ」なんて言うのに驚き、
「こちらはあなたのご親戚のお宅ですか」と尋ねたら、
「親戚ではありませんが、良く知っているお宅です」という答えが帰ってきた。
ああそうか、うさぎが水上家屋のお宅を訪ねたいと言っていたので、
カエリさんは気を利かせて知り合いのお宅に連れてきてくれたのだ。
しばらくすると、うさぎたちが入ってきたのとは別の出入り口から、 10数人のお客がどやどやと入ってきた。 中国語で話す人たち。なんと、添乗員さんらしきリーダーがいる。 リーダーは、この家のご主人に尋ねもせず、皆にソファに腰掛けるようにいった。
一体この家は何なのだろう――?
ふと壁を見上げると、日本語の雑誌の切り抜きが貼ってあった。
内容を読むと、ブルネイをツアーで訪れた人々の「水上家屋訪問体験記」だった。
「水上家屋は、外見は質素ですが、家の中は広くて贅沢でびっくりしました」
というような感想が書いてある。
なんとなく何度もどこかで目や耳にしたフレーズだ。
ガイドブックで目にした記憶があるし、
大使館員だったか誰だったかも同じ表現を使っていたような気もする。
確かにこの家は広くて裕福なかんじがする。 でも、このご家庭がカンポンアイールの平均的な家庭と思ってしまってよいのだろうか? このお宅はごく普通のご家庭なのだろうか。
カエリさんに、「このお宅は普通のお宅ですか」と尋ねたら、「イエス」のお答え。
でもよくよく尋ねてみると、「ご主人は旅行会社をいくつか経営している社長さんで、
外国からのお客を招くのが、彼のビジネス」なのですと。
‥あのー、それの一体どこが「普通のお宅」??
水上家屋のご家庭を見学――そう、「訪問」というよりは、「見学」――させていただいた後、
まだ水上タクシーが迎えにくるまでほんの数分ばかり時間があったので、
その辺をウロウロしてみた。
だけど水面上1メートルの上に渡された通路は狭く頼りなげで
その上に立っているだけで怖い。
道に沿って渡した板に、枕木のように並べた横板と横板との間からはるか下の方に
川の水が見える。
欄干もあったりなかったり。
よしあったにしろ、細い木で作った頼りない欄干だ。
そこにもたれかかろうものなら、欄干もろとも川に落ちてしまいそう。
探険はしたい、さりとてちょっと怖いなあ、と思って尻込みしていたら、 なんとこのガタガタの桟橋の上を、自転車が走ってきたので仰天した。 ‥人間、慣れれば慣れるものなのだろうか。
結局探険はせぬまま、迎えのボートがやってきたので、それに乗り込んで帰った。
水上タクシーは、また川を横切り、元の船着場へと帰っていった。
行きよりも短かったところをみると、行きはちょっぴりサービスしてくれたのだろう。
価格は往復で15ブルネイドル(約1000円)。たいした金額ではない。
行きにだいぶ待たせたお詫びもあって、運転手さんにも、扇子とカードを差し上げた。
でもこれには後日談がある。
この日の夜、ホテルのベッドの上で観光ガイドを見ていたら、
「水上タクシーは1回一ドルが相場」と書いてあったのだ。
チャーターする場合でも、一時間10ドルが相場なのだそう。
するとうさぎたちが支払った15ドルというのは、破格の大盤ぶるまいであったわけだ。
話はそれだけでは終わらない。 その相場が書かれていた脇には一枚写真が掲載されていたが、 その写真に、知った顔が二人も写っていたのだ。 今日の船頭のおっちゃん、そしてそのお客として写っているのはなんと古屋さん!
ここでようやく、うさぎはどうして地元の人々とは違う船着場に案内されたかが分かった。
要するにうさぎたちは、
今日は見事にカンポンアイールの観光ルートを見学してきたというわけなのだ。
観光客用の船着場から、観光客用の船頭の漕ぐ観光客用の水上タクシーに乗り、
観光客用のお宅にお邪魔し‥。
これで「ブルネイ人の生活を垣間見た」などと思ったら大間違いだ。
また、気がかりなのは、通常ならばお一人様数千円という費用のかかる行程を たかだか水上タクシー代の15ドルだけで図らずも行脚してきてしまったという点だった。 自宅をビジネスとして開放しているお宅にタダで上がりこみ、お菓子やお茶までご馳走に なり――。知らなかったこととはいえ、ああなんて図々しい‥。
それにカエリさん。 あの親切な彼が会社に帰って叱られていなければいいが、と、 うさぎは後々まで気になったのであった。