2003年11月10日 Do mind!

チャアは今日、色とりどりの刺繍糸でなにやら作っていました。 ブレスレットのようなものを編んでいるのですって。

「あ、間違えちゃった」とチャア。 うさぎは尋ねました。 「間違えたらどうするの? やり直すの?」

「ううん。間違えたところから解くのやだもん」というのがチャアの返事。 「間違えたって、ただちょっときれいじゃないっていうだけだし」

その言葉を聞いて、うさぎは思い出しました。 20年ほど前、父の姉である伯母を訪れた日のことを。 何の話のついでだったか、母が伯母に言ったのです。
「この子はね、刺繍でも編物でも、途中で間違えたと気付くと、間違えたところまで 全部解いてやり直すんですよ。そのまま続けても、どうせ分かりはしないのに」と。

そう確かに、うさぎは、完全に図面通りでなくては気がすまないところがありました。 一目ずれたからといって大勢に影響ないことは分かっているけれど、 間違えたままつづけるのはいやなのです。落ち着かないのです。気持ちが悪いのです。 だから、効率が悪いと分かっていても、やり直すのです。

でも、母は違いました。 彼女は、間違えてもやり直しません。 「自分が気にしなければ、一体ほかの誰が気にするというの?」と言って、 間違えたことをあっさり忘れてしまえるのです。

うさぎはそういう母を、内心羨ましく思っていました。 効率が悪いと分かっていて引き返す自分を持て余していました。 母の言うとおり、自分さえ気にしなければ、誰も気にしないのに。 図案通りでなくたって、おおよその形さえ同じならば、実害はないのに。 だから母が伯母に「この子はやり直すんですよ」と言ったとき、 伯母に説教されるのではないかとドキドキしたものです。

ところが。伯母からは意外な反応が返ってきました。
「あら、わたしもそうよ」と伯母は言ったのです。 「他の誰が気付かなくても、自分は間違えたことを知っている。 だからやり直すのよ」と。

うさぎは、伯母のその言葉に、勇気付けられたような気がしました。 自分を肯定してもらったような気がしました。「そのままでいい」と。 だから20年経った今でも、その言葉を覚えているのです。

うさぎは、忘れたいことを忘れるのが苦手です。 イヤなこと、思い出したくないことほど、いつまでも忘れられずに、自分をさいなむ。 考えたくないことを考えないでいるのも苦手です。 考えたくないことほど頭に張りついて、ああでもない、こうでもないと、 自問自答を繰り返すのです。 「気にしない」でいることができない。どうしても気になります。 つくづくソンな性格だなあと思います。 忘れたいようなことを覚えていたって、 考えたくないことを考えたって、百害こそあれ、一利はないのに。

日本語で「気にしない」、英語で"Don't mind"。 それがうさぎは苦手です。 だから時に、その言葉はうさぎを追い詰めるのです。
「なぜおまえは気にしないでいることができないのだ」と責め立てて。

「気にしない」「気にしない」「でも気になる」「気になる」‥。

だけどそうしたう堂々巡りを何十年も繰り返すうち、 いつの頃からかうさぎは、「気になることは、とことん気にする」 ほうが、自分は前に進めるのだということに気付きました。 「気にしない、気にしない」と100遍唱えたって、どうせ気になるんだもの。 「気にしない」と「気になる」の攻防のさなかにいつまでいるよりは、 とことん気にしたほうが、前に進める。 刺繍の間違いに気づいたら、その間違いをいつまで気に病むより、 間違えたところまで解いてやり直したほうが結局早いのと同じように。 引き返すことも、足踏みすることも、一つの進み方だと思うことにしたのです。

とはいえ、忘れることが苦手というのは、やっぱり厄介な性質です。

先日誰かの葬式に出席したとき、棺を見送りながら、父がうさぎに尋ねました。

「忘れることと、覚えていること、どちらが難しいと思うかね?」

「忘れることでしょう」と答えながら、うさぎは気づきました。 ああこの人も、忘れることが苦手な人なのだと。 自分はこの人に似たのだと。

きりんは忘れることが得意なようです。 少なくとも、うさぎよりは。

「ま、いっか」と軽く言って、間違えた目を解くことなく、 また新しい目を作ってゆくチャアの姿に、今日うさぎはホッとしました。 わたしに似なくてよかった、と。