うさぎはネネの中学校の広報委員です。 いま委員会では今年度最後の広報誌を作っており、 うさぎはそのうちの一ページのレイアウトを任されました。
だけど、「できるよね? パソコン」という委員長さんの一言にうっかり頷き、 資料を家にもって帰ったものの‥。
「パソコンにさわれる」ことと「ワードで文書が作成できる」ことは別物なのじゃ〜っ!
と今になって気付き、四苦八苦しています。 ワード文書を作成するのは初めてではないものの、
よく考えたら、飾り枠なんてつけたことないじゃーん!
段組も、やったことないじゃーん!
縦書きすら、やったことないじゃーん!!
‥そういうレベルのうさぎであります。 しょうがないから「できる」シリーズ片手に一からワードのお勉強。 とほほほ、一体どうしてこんなことに‥。 でもまあ、考えようによっては、これもワード習得の良いチャンスかも。 そう思って頑張るしかありません。
尤も、ここでほんのちょっとワードがいじれるようになったからって、 それは「技術」だの「スキル」だのというほどのものでなく、 せいぜい、次に似たような仕事を任されたときに楽できるようになる程度が関の山。 ここで頑張ろうが放り出そうが、人生への影響ははなはだ微々たるものであります。
掃除・洗濯・料理・繕い物、それに学校やら地域での活動‥。 主婦には毎日やることがいろいろあります。 何でもそこそここなさなくてはならないから、何でもそこそこできるようになります。 時おり、今回みたいに自分の実力の範疇外の作業を引き受けて、 ほんの少し、できることの範囲が広がります。 そして、もうちょっとその方面を深く突っ込もうかなー、と思っているところに、 別の難題が降りかかってくるから、それは「そこそこ」レベルで終わります。 そしてまたそのうち、似たような作業を引き受けたりもして、 そこでやっともう一段階段を上がることになる。
主婦の生活における進歩は、いつもらせん階段状。 掃除、洗濯、料理、繕い物、掃除、洗濯、料理、繕い物‥。 或いは、ワード、エクセル、対人関係、ワード、エクセル、対人関係‥。 目の前に並んだいろんな仕事を巡回しながら、 ちょっとづつちょっとづつ、コイル状に階段を登っていくのです。
このらせんから「ワード」というパーツを一つ外してしまっても、 きっと人生の大勢に影響はない。 だから、もっと簡単な方法を選んでお茶を濁してしまってもいい。
でも、コイルの環はやっぱり大きいほうがいい。 だから今日は、頑張らないとね――。
◆◆◆
【 バリ旅行記12 ビッグコマン 】
「夜遅くでも、食事のとれるレストランって近くにありますかしらね?」
うさぎがアラムジワのスタッフにそう尋ねたのは、
バリダンス公演に行った晩のことだった。
「ございますとも。系列のラカレケレストランに出向かれても良いですし、
お部屋にお持ちすることもできますよ。
なんなら今、オーダーを先に済ませておかれては?
そしたら公演から帰ってきてからあれこれ考える必要なく、食事にありつけますから」
長老めいた雰囲気のそのスタッフはそう答えた。
うさぎは、それは良い考えだと思い、夕食のオーダーを済ませてからダンス公演に出かけた。
公演から帰ってくると、彼はまたそこにいた。
「おかえりなさい。さっそく食事の準備にとりかからせましょうね?」
「ええ、お願いします」
うさぎは明日の朝食のメニューを借りて、部屋に戻った。
夕食後、翌日の朝食のオーダーを決めてレストランに戻ると、 彼はまたそこに立っていた。 若いスタッフの中で、彼だけは年配である。 おっとりとした表情のスタッフの中、彼にはどこか威厳がある。 つまり彼は、他のスタッフとはちょっと違っていた。
朝食のオーダーを済ませたあと、
「さきほどの夕食の件では、よいアドバイスをどうもありがとう」と彼に礼を言うと、
「いやなに。困ったこと、分からないことがあったら何でも私に相談してください」と
彼はゆっくり言った。
その言葉を聞いたら突然、うさぎの頭に一つの名前が閃いた。
「コマン」という。
「アラムジワで何か困ったことがあったら、コマンさんに相談するといいですよ!」
ネットの掲示板でそうアドバイスされたことがあった。 そしてそれ以外にも、 頼れる人としての「コマン」という名を何度か目にしたことがあったのを思い出したのだ。
「分かった!」とうさぎはだしぬけに叫んだ。
「わたし、あなたを知っているわ。あなたはミスター・コマンでしょう?」
彼はこころもち頭を後ろに反らしてうさぎをちょっと見つめると、唇に笑みを浮かべ、
大きな手をうさぎの方に差し出した。
「いかにも、わたしがコマンです。改めまして、どうぞよろしく」
「あ、こちらこそ、ナイストミーチュ」慌ててその手を握り返すうさぎ。
「して、あなたにコマンの名を教えたのは一体どなたでしょう?」とコマンさん。
「ネットで知り合った方が、教えてくださったんです。
"何か困ったことがあったら、コマンさんに相談しなさい"と。
そうだわ、忘れてた!
わたし、あなたにエアチケットのリコンファームのことを相談しなくては!」
この言葉を聞いたとたん、背後で二人の会話を聞いていた4、5人のスタッフたちが一斉に やんやとはやし立てた。
「困ったことがあったら、コマンのところへ行けだってさ〜♪」
一人が歌うように言った。
「リコンファームで困ったら?」
皆が一斉に叫んだ。
「コマンのところへ行け!!」
また別の誰かが訊いた。
「お腹が空いたら?」
皆が合唱する。
「コマンのところへ行け!!」
「失恋したら?」
「コマンのところへ!!」
「赤ん坊が泣いたなら?」
「コマンのところに急げ!!」
これにはコマンさんが、顔をしかめてみせた。
「金に困ったら?」
「コマンのところに借りに行け!!」
おお、それは勘弁してくれ、と、コマンさんはますます困ったような顔をしてみせた。
それはまるで、ミュージカルを見ているようだった。
ひとしきり皆で大騒ぎをしたあと、コマンさんが言った。
「ここにはわたし以外にも、"コマン"がたくさんいますからね。
困ったことがあったら、誰に頼んでも大丈夫ですよ。
リコンファームについてもね。
そうだろ? みんな?」
後ろに並んだ連中が「はーい!」と手を挙げた。
「ボクもコマンって言います!」
「ボクもコマン!」
「みんなコマンで〜す!」
実は、バリの最多カーストである"スードラ"には4つの名前しかない。 男であれ女であれ、長子には必ず「ワヤン」という名がつけられ、 二番目は「マデ」、三番目の子は「コマン(ニョマン)」、四番目は「カトゥト」で、 五番目以降はまた「ワヤン」に戻って順繰りに名前がつけられるのだそうだ。 だから、全員が「コマン」という名前であるというのは冗談だとしても、 本当にコマンは他にもいるはずである。
「でも、みんなコマンさんだったら、あなたのことは何てお呼びすればいいの?」とうさぎ。
長老のコマンさんは高らかに笑い、
「わたしはビッグコマン。三番目に生まれたので、子供の頃からそう呼ばれています」
と答えた。
「他にはどんなコマンがいるの?」と尋ねると、
「そうですねえ、ヤングコマンとかリトルコマン、
中くらいならミディアムコマン、色黒なブラックコマン‥」と彼は指を折りながら言った。
様々なコマンがいる中で、彼の名は「ビッグコマン」。 彼にぴったりの名だと、うさぎは思った。