英語の多読を始めて約1ヶ月。最初のうちは、「さあ『英語』を読むぞー!」みたいな気合がありましたが、最近は、「さあ英語を『読むぞー』!」に変わってきました。つまり、「英語」かどうかより、「読むこと」が大事。何語でもいいから、面白い本を読みたい。
これまでわたしにとって、本というのは必要に迫られて読むもので、娯楽や趣味としての読書はあまりしてきませんでした。だから、英語の多読を始めたのも、楽しむことが目的ではなく、英語が上達するかも、という実利的な期待と、ちょっとした好奇心からでした。でも多読をきっかけに、読書の楽しさを知り、最近は、英語がどうのというより、むしろ読書自体が楽しくなってきました。
何語で読んでも、好きな本はやはり好き。特に、自分がいかに19世紀のイギリスが好きかということに気づきました。通りには自動車じゃなくまだ馬車が走っていて、山高帽をかぶった紳士が降りてくる。屋敷のテーブルの上には花柄模様の茶器が置いてあり、レースの袖口を揺らしながら、貴婦人がお茶を飲んでいる・・・。そういう情景を想像するだけで幸せ~♪♪ 本に書いてないことまで勝手に想像して楽しんでいます。
同じストーリでも、舞台が19世紀のイギリスか、現代のアメリカかで、体感的な面白さが変わってくるんじゃないかとさえ思います。ハイライトをくわえた探偵さんが、アメ車に乗って「I wanna ~」とか言ってるより、絶対、パイプをくわえた探偵さんが馬車に乗って「I shall ~」みたいな喋り方をしているほうが好みなんですもん^^。
話の内容が単調でも、背景が19世紀のイギリスというだけで許せてしまう。登場人物が交わす会話の端々から、当時のものの考え方が推し量れて、ついニヤニヤしてしまいます。ストーリー展開の面白さも大事ですが、当時の人々(特に中産階級)の暮らしぶりや価値観を垣間見るのが楽しいのです。
そうはいうものの、わたしが英語で読める本はまだまだ限られているので、19世紀のイギリスが舞台のお話ばかり選んで読んでいたら、すぐに読みつくしてしまいそう。だから舞台が現代だったりアメリカだったりしても、面白そうで簡単そうならとりあえず読んでみることにしています。
で、これはこれでまたいいんです。たまたま手にとった本が意外にも面白く、食わず嫌いを返上する場合があるからです。
一つ面白いものを読むと、それに関連する様々な疑問やら興味がわき、どんどん世界が広がります。地名が出てくれば地図を広げ、年号が出てくれば年表を追う。簡約版で理解できなければ、原書の和訳を読み、本が面白ければ、映像も見たくなる。
同じ物語でも、映像で見るのは、本で読むのとはまた違った楽しさと発見があります。先日「Fly way home」という物語をGRで読んで面白かったので、同じ作品のDVDを借りてきて見ました。そしたら、本で読んだ印象とはスケールが違ったので、驚きました。
たとえば、北アメリカ大陸のはわたしが想像していたよりはるかに雄大だったし、地方都市のビルははるかに高層だった。主人公のお父さんは想像よりもはるかに毛むくじゃらだったし、鳥のヒナが、こんなにたくさんフンをするとは! 決して想像も間違ってはいなかったのですが、但しスケールが違った。自宅の小さなテレビで見てすら、映像でみたものは、文字から想像したものよりはるかにスケールが大きく、ワイルドでした。
逆に言えば、わたしの想像がいかに日本サイズだったかってことです。日本人にはあまり胸毛がないし、地平線は山や街に遮られるのが当たり前。わたしはそういう日本の常識サイズに、まあアメリカ大陸だからっていうんで、2~3割増し程度の胸毛や平原をプラスして想像していたわけです。つまり、日本の2、3割増しが、わたしの想像の限界だったわけで、英語で読んだからって、想像のスケールまでアメリカサイズになるわけじゃないんだな、って思い知りました。
多読で分かったことは他にもあります。たとえば、推理小説で犯人が当てられないのはどうしてなのか、とか。
どうもねえ、穏やかで好ましいタイプだったりすると、もうその人を容疑者から外しちゃってる気がするんですよね。「コイツはいいヤツ。だからシロ」とつい思いたくなる。で、怒りっぽかったり、感じが悪かったりすると、「コイツは怪しい!」と無意識に決め付けてしまっているような・・・。つまり論理じゃなく、感情や好き嫌いで犯人選びをしているわけで^^;。どうりでなかなか推理が当たらないわけです。
最初のうちは、「Hi is a good man」或いは「He is a bad man」といった、スターターレベルのGR特有のミもフタもない二元化表現が気になったものですが、あんがい自分の感覚も二元的だなあと気づきました。
あと、名探偵の顔色をつい伺ってしまう。「彼はシロ」というそぶりを名探偵が見せようものなら、もうシロだと信じ込む。こうして作者の思うツボにまんまとハマり込むわけで・・・。ハハハ、こんなんで推理が当たるわけないじゃないね^^;。
・・・とまあ、こんな感じで、いろーんなことを徒然なるままに考えたり感じたりしつつ、毎日楽しく遊んでいます。そう、これは完全に「遊び」ですね。「勉強」じゃない。全然頑張ってないし。ただ読みたいから読んで、読んだ語数数えを、金勘定的に楽しんでいます。
・・・で、「英語力」に関しては・・・、エート・・・。今のところ、体感できるほどの変化はないかも・・・です。ま、よく出てくる単語をいくつか覚えはしましたがね、1ヶ月間、毎日2時間くらい英語を読んで、その程度^^;。
でも、なんかもう、英語力が伸びるとか伸びないとか、割とどうでもよくなってきました。こんなに楽しんですもん。これでちょっとでも英語力が伸びたら、美味しすぎ!
未来の英語力よりも、今わたしが考えるのは、現在の英語力のことです。つまり、とりあえず今現在読めるものがあってよかったなあ、と。読めるものがあるってことは、これまでの英語力がゼロではなかったってことですよね。つまりこれまでやってきたことは、学校の勉強にしろ、英検受験にしろ、すべて無駄じゃなかったってこと。英語力があるからこそ、英語が読める。楽しく読める。
昨日、心から読んでよかったと思える本に出会いました。その本が読めたのは、英語力があったればこそ。邦訳は出ていないからです。
あー、英語を勉強しといてよかった!!
英語を勉強してくれた過去の自分、ありがとね!!
英語力、万歳!!
と、心から思いました。
この先、「多読によって英語力が伸びる」かどうかは分かりません。でも、「英語力によって多読が楽しめる」、今はそれだけで充分、と感じています。