100万語の目標の3分の2を達成し、70万語まできました。相変わらす「音」にハマっている傍らで、読むほうは、簡約本(古典のリトールド)の読み比べにハマっています。
もともとわたしは、好きなものは徹底的に好き。お気に入りの世界にいつまでも浸っていたいタイプ。愛着のあるおしゃぶりが手放せない赤ん坊みたいに、ひとたび気に入った本は、読み終えてもすぐには手放せず、なんとなく手でもてあそんだり、頬を摺り寄せたりして、ボ~ッと余韻を楽しんでいるのが常でした。
でもこういうのって、いくらなんでも効率悪すぎ!! 多読はただの趣味、何かに追われているわけではないとはいえ、ダラダラと時間を無駄にしている自分に、つくづく嫌気がさし、自己嫌悪を感じていました。
そんなわたしが編み出した奥の手がこの「簡約本の読み比べ」。読み終えた本をきちんと読み返すでもなく、ただただ眺めて愛着を感じているヒマがあったら、同じ物語でいいから別の簡約を読み、語数を稼いだほうが、まだ効率的なのでは??と思って^^;。
これまでに読み比べをしたのは、ディケンズ「クリスマス・キャロル」(3冊)、オルコット「若草物語」(3冊)、オスカー・ワイルド「カンタベリー・ゴースト」(2冊)、ネスビット「レイルウェイ・チルドレン(若草の祈り)」(2冊)、コナン・ドイル「シャーロック・ホームズの冒険」(2冊)です(最近多読で読んだ本一覧)。
同じ物語の簡約、一冊目よりも二冊目、二冊目より三冊目のほうが、読むスピードが上がりそうなものですが、わたしの場合は逆。一冊目は先が気になるので短時間で読み飛ばし、二冊目はマニア心が芽生えはじめ、細部の描写にこだわって読むのでスピードが落ちます。更に三冊目ともなると、「一冊目はああだった、二冊目はこうだった」などとあれこれ思い出しながら読むので、ますます低スピードに・・・(汗)。
本当はこういうの、「多読」のうちに入らないと思う。こんなマニアックな読み方、これはこれで時間の無駄では?!という気も・・・。要するに、読み終えた本に頬を摺り寄せているよりは、いくらかマシという程度です。決して人さまにオススメできるような読み方ではない。
でもねー、どうもわたしにはもともとこういうマニアックな部分があるようで、二つのものを並べたり比べたりという作業が、異常に好きなようです。フランス語関連で「自分で訳す星の王子さま」という本があります。これが、日本語で出ているいくつもの「星の王子さま」の翻訳を読み比べ、それぞれの誤訳を徹底的に洗い出すという、異常にマニアック、且つ翻訳者にとっては脅威ともいえる本なのですが(笑)、わたしはこの本に感じるところがあります。「比べること」から見えてくるものは多いです。
簡約の読み比べにより見えてきたのは、たとえば、「同じ本の簡約でも、味わいはさまざま」ということです。深い印象を残すものもあれば、すぐに忘れてしまうものもある。
一般に、総語数が多いほうが、印象に残りやすい。これは当たり前ですね。総語数が多ければ、それだけ読んでいる時間も長いのですから。
でも、同じくらいの総語数でも、印象に残るものと、そうでないものがあります。
印象に残りやすいものは、主人公の気持ちを軸に、物語が再構成されている簡約です。総語数の制限から、細かなエピソードを省き、場合によっては改変されていたりもしますが、様々な体験を通じて移ろう主人公の気持ちの流れに矛盾がなく、最初から最後までうまく繋がっているもの。こういう簡約は、読み終えたあと、「読んだー」という充実感があります。
一方、読んだ充実感をあまり感じないのは、主人公の気持ちの移ろいが描ききれていないもの。総語数の制限から、エピソードの羅列が優先され、主人公の気持ちの移ろいが描ききれていないと、なぜそういう事件がおきたのか、なぜ主人公はそういう行動をとったのかよく分からないまま、気づいたら物語が終わっていて、一つの連続した物語を読んだ気がしません。
限られた語数の中、何を優先して描くか。それは簡約する編者の考え一つで、できるかぎり原作に忠実にエピソードを描くことを優先する編者もいれば、多少エピソードを改変しても、主人公の気持ちの流れに沿っていこうとする編者もいるわけです。わたしは後者が好きですが、どちらが好きかは、人によって好みの分かれるところかもしれません。
簡約によりそれぞれに違った味わいがある場合もあります。元は同じ物語なのに不思議ですが、この作品に対する編者の解釈や価値観が微妙に投影された結果かな、と思っています。
「クリスマスキャロル」をペンギンのレベル2で読んだとき、わたしはこの話は、「弱者に対する、いたわりと優しさの大切さ」がテーマだと思いました。「報いは必ずやってくる。だから早いトコ改心しなさいよ」という教訓話と受け取ったのです。
でもオクスフォードのレベル3では違いました。「まばゆいばかりの未来の白さ」がテーマだと思いました。このリトールドは、挿絵といい、物語の雰囲気といい、最終章の一歩手前まで、どこまでも暗く、重苦しいのですが、最終章に入った途端、雰囲気が変わります。前章の最後で、「未来は変えられないのか、教えてくれー!」と叫んでいた主人公が、突然、その答えに自分で気づく。そこまで果てしなく暗かった分、最後の明るさがハンパじゃない。その見事な対比から、ああ、これは「因果応報」の教訓話じゃない、作者が描きたかったのは「白紙の未来の圧倒的な明るさ」だ、と感じたのです。
原作の持つ香りを再現するには、なるべく使用語の制限がゆるいに越したことはありません。
「クリスマスキャロル」には、「過去・現在・未来」のクリスマスの幽霊が出てきます。子どもの頃、日本語で読んだときから、なぜ現在の幽霊だけが派手で楽しげなのかが不思議でした。過去と未来のクリスマスの幽霊は、いかにも幽霊っぽい暗~い雰囲気なのに。
一冊目の簡約、ペンギンのレベル2を読んだときも謎は解けませんでした。
ところが二冊目、オクスフォードのレベル3で突然謎が解けました。「現在のクリスマスの幽霊」が「the Ghost of Christmas Present」となっていたからです。そうか! 「クリスマスプレゼントの幽霊」だから楽しげだったんだ! ペンギンのレベル2では「present(現在)」という単語が使用範囲に含まれていなかったのでしょう。「present(現在)」の代わりに「now(今)」が使われていました。だからこのかけことばに気づかなかったのです。
ことほど左様に、使用語数が多いに越したことないのは、確かです。でも、それは「自分が読める範囲において」の話。難しくて読めないんじゃあ意味がない。背伸びせずとも、現在の自分の力量の範囲内に古典のほうが降りてくるところに、簡約のありがたみがあるんじゃあないですか。チキンなわたしは、なるべく無理をせず、簡単で短いものから読み、徐々に長くて使用語数の多いものへと気長にステップアップしていこうと思っています。
この調子で、いつか原作が読めるようになったらいいですが、原作はまだまだ遠い。一度O・ヘンリーの「賢者の贈り物」を簡約で読んだあと、原書で読もうとしたのですが、しょっぱなから難しくて、たった2000語の短編なのに、全く読める気がしませんでした。
そんなわけで、ステップ・バイ・ステップ。今のところは簡約の読み比べを楽しみ、どうしてもオリジナルの表現が知りたい場合のみ、部分的に原作の拾い読みをするというパターンに落ち着いています。
文章だけでなく、音や絵に助けてもらうのも、楽しみのバリエーションの一つです。
三冊目に読んだ「クリスマス・キャロル」は、朗読CDつきの絵本でした。総語数が非常に少ないので、文章の味わいは今ひとつでしたが、その分、絵や音による発見がありました。
主人公が経営する事務所に勤めるボブは貧乏です。また、主人公の甥っ子フレッドも貧乏。だから最初の二冊を読んだ時点では、二人とも同じように貧乏なのだと思っていました。
ところが、三冊目の絵を見て驚きました。確かに、事務員のボブは想像していた通りの貧乏人でしたが、甥っ子のフレッドのほうは、紳士らしい装いでワインを傾けており、到底貧乏には見えない! テーブルの上には銀の燭台と花。一体これのどこが貧乏?!と叫びたくなりました。
でも考えてみたら、同じ「貧乏」という言葉で表されていても、ボブとフレッドでは、そもそも階級からして違うのですね。ボブは、本当に食うにも事欠く、ビクトリア朝時代の本当の庶民。フレッドは主人公と同じ階層ですから、それなりの教育を受けた中産階級のはず。金を貯めこんだ主人公から見れば「貧乏」でも、クリスマスに正装して正餐を取る程度の余裕はある。
それに気づくと、一冊目、二冊目で何気なく読んだ、ボブがフレッドに対して呼びかける「sir」の重みが増してきます。更に、物語の最後のほうで出てくるボブよりももっと社会の底辺の人々の姿が浮かび上がってくる。幾重にも積み重なった、ビクトリア朝時代のイギリスの姿。そして、絵の中の主人公が、金持ちであるにも係わらず、その最下層の人々と同じ、余裕のない表情をしている異常さに気づくのです。
三冊目のCDはまた、主人公の心の変化を、体感的に音で教えてくれました。主人公の口癖「Humbug!」の言い方、生き方を変えた主人公の笑い。新しい生き方を発見した主人公は笑いが止まらない。何か一つ思いついては、ケラケラケラケラ、一人で笑っている。その破天荒な明るさに、すでに二冊目を読んだわたしは思うわけです。「ああやはり、クリスマスキャロルとは、こういう話であったか」と。
一月の半ばにクリスマスの話で恐縮でしたが、最近はこんな風に、リトールドの読み比べを中心に楽しんでいます^^。あんまり多読っぽくないし、我ながらヒマ人だなあ、と思いますが・・・、ま、いっか、楽しければ^^;。