トルコ語

ビギナーズラック

 先日、多読オフで「突然、あるレベルの児童書だけが読めなくなった」と言っていた仲間がいました。大人用のペーパーバックは読めるんですって。

 「わかるなあ」って思いました。不思議でもなんでもない。そういうこと、普通にあるだろうと思った。

 たぶん、本当に「読めなくなった」わけじゃないと思ったんです。実際は「読めなくなったと感じている」だけ。つまり「ご自分の理解度に満足できなくなったのだろう」と思ったのです。

 ネイティブ向けの大人用の本は、ある程度理解できればそれで満足できる。理解できないところがあっても、ま、いっかと思える。

 でも子ども用の本で少しでも分からないところがあると、ちょっとショック。だからそういう事態にたまたま続けざまに遭遇し、「読めない」ような気がしてしまったんじゃないかな、って。

 実際あとから詳しく聞いたところでは、だいたいそんな感じのようでした。


 一方わたしは最近、外国語の本が「読める」ような気がしています。

 その理由ははっきりしてる。トルコで買ってきた絵本が読めたからです。

 これも実際には「読めた」わけじゃない。あらすじがわかった。ただそれだけ。

 でも単語の2つに1つは見たこともないのに、辞書も引かずにあらすじが分かったら、そりゃ「読めたー」っていう達成感を感じますよ。

 また、英語じゃなくトルコ語の本だったから「読めた」気がしたんだと思う。

 わたしの仕事は、英語とは本来全く関係ありませんが、ちょくちょく英語が必要になります。英語の論文を段落分けしたり、海外の写真配布サイトの規約を読んだり。

 着物着て街を歩いていると、英語で「写真を撮らせてください」と話しかけられます。着物でなくても、道くらい聞かれる。日本から一歩も出なくても、英語はけっこう、あっちゃこっちゃで出番があります。

 でも日本にいてトルコ語に出番があるかって・・・まずないと思う。英語以外の言語は、国内にいる限り、特殊な場でもない限り、滅多に必要には迫られない。まあフランス語で道をきかれたことならありますがね。これはレアケースでしょう。

 でもだからこそ、英語以外の言語はとっても自由。できたところで使えないし、できなくても一向に困らない。「できなくちゃならない」というおもりがついていないから、羽のように気分は軽い。

 トルコ語の本が「読めた」と思うのは、ひとつには「読めなくても一向に構わない」からであり、もうひとつには「読めるはずがない」と思っていたから。

 要は、プレッシャーもなければ、期待もない。

 期待がゼロだから、成果はいつも期待以上。それが「読める」と感じるカラクリなのでは。

 「ほんの少し分からない部分がある」だけで「読めない」と感じたり、「ほんの少し分かった部分がある」だけで「読める」と感じたり。

 「読める」と感じるかどうかは、客観的な理解度ではなく、多分に主観的、精神的なのではないかと思います。「読めなくては」というプレッシャーや「読めるはず」という期待の大きさとのバランスで決まるのでは。

 もしかしたら「スランプ」っていうのも、そうなんじゃないかなあ?

 現実の自分よりも、期待が先にいってしまったとき、人はスランプに陥るのでは。

 ・・・というより、「スランプに陥った」と感じる。

 

 初心者が滅多にスランプになったりしないのは、ろくに期待してないから。

 挨拶ひとつ覚えただけでも、天にも昇る気持ち。初心者にはそんな「ビギナーズラック」がある。

 始めたばかりのわたしのトルコ語は、まさしくビギナーズラックの真っ最中。作文が3割書けて大喜び。書けなかった7割の悔しさより、書けた3割の嬉しさが勝る。

 このビギナーズラックが、いつまでも続くといいなあ。

 あわよくば、他の言語でも、この自由な気分を呼び戻せないかなー? ・・・なんて^^。

アンカラにて。ドライフルーツとナッツ類を売る露天の店先。

タイトルとURLをコピーしました