最初にそれを目にしたのは、ブルネイ滞在2日目のことだった。
夕方プールに入っていたら、突然空がみるみる桜色に染まったのだ。
そして、ふとアトリウムを見やると、この巨大なガラスの箱が、
それはそれは美しい金色の輝きを放っていた。
うさぎはあっけにとられて、しばしぽかんと口を開けたまま、それを眺めていた。
桜色の空、その空に向けて金色の強い輝きを放つアトリウム。
それは、うさぎがこれまで見たことのない種類の美しさだった。
うさぎを我に返らせたのは、誰かの切ったカメラのシャッター音だった。
このアトリウムとこの桜色の空を、早速誰かが写真に収めていたのだ。
うさぎはハッとして、慌てて水から上がり、自分のデッキチェアまで走っていって
カメラを掴むと、アトリウムめがけてそれを構えた。
だけど、ファインダーから眺めたその構図はもうひとつ、うさぎの気に入らなかった。
どうせなら最高のアングルで撮りたい。
プールも入れたほうがアトリウムが水に写り込んでより美しく撮れるだろう。
――そう思い、プールにかかった橋を渡り、プールの逆側でもう一度カメラを構え直した。
ところが、これがいけなかった。
うさぎがモタモタしているほんの1分か2分の間に、空はその赤みをどんどん失っていき、
うさぎがシャッターを押したそのときには完全にそのピークは過ぎてしまっていた。
うさぎはガッカリした。ものすごく後悔した。
アングルなど気にせず、とにかく一度シャッターを押していれば‥。
うさぎは悔しくてたまらなかった。
でもチャンスはまだある、と思った。
明日、明後日。夕焼けを撮るチャンスはあと2度あるはずなのだ。
うさぎは時計を見て、時刻を確かめた。6時15分だった。
明日、明後日の6時15分には、必ず一番良いアングルの場所に待機していよう
――そう心に誓った。
◆◆◆
翌日の夕方、うさぎは5時半くらいから空の様子が気になりはじめ、 夕焼けが訪れるのを今か今かと待ち詫びた。 いろいろ場所を変えてはファインダーをのぞいてみると、 一番良いアングルは、 メインプールと塩水プールを隔てる細い縁の上に立ったときだということが分かったので、 6時15分前には、その縁の真ん中あたりに待機し始めた。
けれど、この日はちょっと曇空だった。 海の方は薄い雲がたなびいている程度だったが、 アトリウム付近は厚い雲に覆われており、それが気がかりだった。 なんとかこの雲が動いてくれないだろうかと、うさぎは祈るような気分で空を見つめた。
けれど、雲はなかなか思うように動いてくれなかった。
6時、6時5分、10分、15分‥。
時間は刻々と過ぎていったが、ついにアトリウム付近の空は薄鼠色の雲に覆われたまま、
桜色に染まることなく終わった。
20分、25分。
日はどんどん海の方へと低くなり、海の上の空を見事な赤紫色に染め上げた。
うさぎは海と空に向け、夢中でカメラのシャッターを切った。
その写真が撮れたのは幸いだった。
おそらく何枚かは、気に入った写真に仕上がるだろう。
でも、やっぱり悔しかった。
ただの夕焼けなら日本でも撮れる。
うさぎが一番撮りたかったのは、夕焼けではなく、アトリウムの輝きだったのだ。
空が桜色に染まったときの、あのすさまじいまでのアトリウムの輝き――。
うさぎが何よりも撮りたかったのは、それだった。
「明日はどうか、晴れますように」
うさぎはそう祈った。
◆◆◆
翌日は、見事な青空だった。空には雲ひとつなかった。
「今日こそは撮れるかもしれない!」と、うさぎは小躍りした。
前の日と同じ場所に6時前から待機し、うさぎは"その時"を待った。 待って、待って、待ち続けた。 けれど――。
澄み渡った青い空を桜色に染めぬまま、太陽は海の方へと沈んでいってしまった。
うさぎは呆然とした。泣きたくなった。
今日が最終日なのに!
明日はブルネイを発つのに!!
夕焼けは、晴れていても雲っていてもダメなのだ。
うっすらとした雲が、夕陽の赤さを受けてほのかに色づくのだ。
ブルネイなら、エンパイアなら毎日夕焼けが見られると思ったら大間違い。
2日目に見たあの夕焼けは、神様がくれた、ただ一度のチャンスだったのだ。
6時30分、うさぎは肩を落としながらカメラをしまい、とぼとぼと部屋に帰った。
部屋に帰りつくと、うさぎは熱いシャワーを浴びた。 7時からは、リ・ゴングレストランに中華ディナーを食べにいく。 その支度をしなければならなかったのだ。
シャワーを浴びて出てくると、チャアときりんがまだ部屋に戻ってきていなかった。
「あら、まだプールにいるのかしら? 呼びにいかなくっちゃ。ディナーに遅れちゃう」
うさぎはそう思い、二人を呼びに外に出た。
外に出て、ふと空を見上げた瞬間、ギョっとした。
空がくっきりとした群青色に染まっている‥!!
一体どうしたことだろう?
もうすっかり太陽は沈んでしまったはずなのに、まだこんなに空が青いなんて!
うさぎは今降りたばかりのエレベータにまた飛び乗り、5階を押した。
そして廊下を走って部屋に戻ると、カメラを引っ掴んだ。
そこに電話が鳴った。
「イエース?」
うさぎはイライラしながら電話に出た。
ディナーの予約を入れたリ・ゴングレストランからだった。
「お飲み物のご注文を承ろうと思いまして」と電話の向こうの声は言った。
「ナッシング」
うさぎは乱暴に答えた。
それどころじゃないのよ。空が、空が!!
「ご自分のをお持込みになられるのなら、グラスをご用意いたしておきますが」と先方。
「いいえ、うちはアルコールは飲まないのです」とうさぎ。
「そうですか、それでしたら何か別のものを‥?」
「ごめんなさい、いまわたし、とても急いでいるの!
飲み物の件はまたあとで。
あっと、それからディナーには15分ほど遅れます。じゃあねっ!」
そう言うと、うさぎは電話を切った。
カメラを掴み直し、廊下を走り、キンキラキンのエレベータでまた階下に下りると、
うさぎはプールサイドまで、走った、走った、走った!!
息を切らしながら橋を渡り、プールとプールの間の狭い縁の上をそろそろと歩き、
いつもの定位置についた。
空の色はだいぶ濃くなっていたが、それでもまだ充分青かった。
プールは、空の色を映し、緑のような青のような、何とも評定しがたい色をしていた。
アトリウムは、ガラス製の玉手箱のように、金色にキラキラと輝いていた。
ああ、なんて美しい建物だろう、とうさぎは思った。
エンパイアの写真を日本で見たときには、腑に落ちなかったものだ。
せっかく回教国のホテル、どうして丸屋根を載せたり尖塔をつけたりして
モスク風にしないのだろうと。
そうすれば、西洋・東洋からのお客はもっと大喜びするだろうに。
ここへ来てからも、昼間のアトリウムは、とりたててどうということもない、 真四角でただ大きいばかりのずどーんとした建物に見えた。 中は、この上なく華麗で贅沢で申し分なく美しかったけれど、 外観はそれほどでもないと思っていた。
でも、陽が落ちて、建物の外よりも中のほうが明るくなったときのこの輝きはどうだろう。 アトリウムに内包している豊かな富を世に知らしめるかのような、 この明るくまばゆい輝きは。
まさにこれは"玉手箱"だ。
巨大な富の玉手箱。
巨額の富が、アトリウムの中でキラキラ光っている――!
シャッターが下りるまでの数秒間、うさぎはカメラがぶれないようにじっと息を殺しながら、 富とはなんて素晴らしいのだろうと、うっとりしていた。