蘇州の古典園林は、歩き回ってこそ、楽しい。 それを教えてくれたのは、獅子林の迷路だった。 どこへ続くとも知れぬ迷路を歩く。 同じ庭でも、見る角度によって風情が変わり、 トンネルを入っては出て、を繰り返す間に、景色は万華鏡のように変わってゆく。 一歩歩くたびに新しい景色が開ける。 こういうのを「一歩一景」もしくは「移歩換景」と呼ぶのだそうだ。
思うに、蘇州古典園林の特徴は、空間を「遮ること」と「繋げること」のバランスの妙である。 もっとも、空間を繋げて使うのは当たり前なので、 ここではもっぱら「さえぎる工夫」のほうが目につく。 広い空間のど真ん中にわざわざ壁を作ったり岩などの障害物を置いたりして空間を区切るのである。
しかし、空間を区切るといっても、完全に仕切って見えなくしてしまうわけではない。 壁に窓や開口部を設けたりして、少し空間のつながりを残す。 その遮断と繋がりのバランスが、ほかの国の庭園ではあまり見られない、蘇州庭園ならではなのである。
では、なぜ空間を区切るのか。 空間を区切ることによって遮られるものは、まずは「人間の視線」である。 障害物をおくことによって、わざわざ景色を見えにくくしているのである。 たとえば、古典園林のとある窓から庭を眺めるとする。 景色はまず窓にはめ込まれた桟に遮られ、更に、窓際に植えられた木々の枝に遮られ、 その向こうの岩山に遮られる。 そしてむこうに、ほんのちょこっと、広々とした池の景色が見える――たとえばそんな具合である。
せっかくきれいな庭が、ほんの一部しか見えないのでは、イライラするではないか、 と思われるかもしれない。 その通り。確かにイライラさせられる。 でも、だからこそ、歩くのである。歩いて、歩いて、景色を追うのである。
障害物が多いからこそ、景色が万華鏡のように変わる。 障害物あってこその「一歩一景」なのである。 庭園にはえてして「この場所から見るのが一番きれい」というベストスポットがあって、 そうした位置から撮った写真がたいてい絵葉書になっているものだが、 蘇州の園林には、無数のベストスポットがある。 自分の目と足で、そのベストスポットを探すのが楽しい。
また、視線のほかにいまひとつ、障害物によって遮られるものがある。 それは、日の光である。 障害物が多いから、蘇州庭園の影は実に多彩で美しい。 樹木の落とす影は枝が風に揺れるたびに形を変え、 窓から差し込む光は、窓格子の複雑な模様を床に忠実に再現する。 広々とした景色を追い求めつつ、ふと壁のほうに振り返ると、 光と影によるもうひとつのドラマがそこに展開されていることに気づくのだ。
全部見えないからこそ、そそられる。 深い色を湛えた池に映る景色は時に、実物以上に美しい。 幾多の障害物に邪魔をされ、やっと垣間見られる景色のありがたみは、 御簾で隔てられた座敷の向こうのお姫様の魅惑と同じだ。
蘇州の古典園林は、皇帝や時の権力者が作った庭園ではない。 隠居生活に入った元官僚や、裕福な文人が自分のために作った私的な庭園なのだそうだ。 だから、敷地もそれほど広くはないし、贅を尽くしたふうでもない。 建物や池の配置も、ビシッと計算されつくされた感じでもない。 「この庭はこう見るべき!」みたいな規則はなく、 ここで何を見つけるか、何をどう見るか、楽しむかは、 庭園を歩く人の裁量に任されている気がする。 それぞれのペースで歩き、それぞれ気に入った場所を見つければいい。 晴れたら晴れたで、雨が降ったら雨が降ったで趣きがある。 その自由さが、わたしはとても好きだ。