うさぎが行きたかったバードガーデンを見物し、 菜々子ちゃんが行きたかった福臨門で昼食を取ると、 あとは夜ビクトリアピークへ行くまでの長い午後に、これといった予定はなかった。 しいて言えば、チャイナ服を買うことくらいだろうか。
チャイナ服を欲しがっていたのは子供たちで、 親たちにとっても、子供にチャイナ服を着せて香港の街を闊歩するのは楽しみだった。 自分たちでそれをする勇気はないにせよ。 子供というのはときに親にとって、憧れの具現代行屋なのである。
うさぎはチャアのチャイナドレス購入に向け、 早くも朝からチャアの頭を姑娘スタイルに結っておいた。 二つに分けた髪を高い位置で結わえ、お団子にするのは技術が要る。 香港行きに備え、何日も前からさんざ練習してやっとできるようになったのだ。
けれどこの髪型は、チャアのお気にはあまり召さなかったようだ。
「なんか変! 髪と一緒に目までが細く吊り上っちゃってる〜」とチャアは鏡を見ながらブツブツ言い、
チャイナ服を買う頃にはとっくに自分の髪を解いてしまっていた。
まったく、親の気も知らずに。
子供たちのチャイナ服を購入したのは、尖沙咀駅の地上出口を出たところにある小さな服屋だった。 実は"ふっくらムーン"に向かう途中すでに、二人は自分のお気に入りをお買い得品の中に見つけていたのだ。 実はそれらは、親たちにとってもお気に入りだった。特にその価格が。 チャイナドレスは100ドル(1500円くらい)、チャイナ服の上だけなら50ドル。 気軽に買える価格だ。
尤も、子供たちはすぐにはそれを買わなかった。 「もっとじっくり考えてから決める」と言って。
ふっくらムーンで食事をしたあとその店に舞い戻ると、 店のお姉さんは今度こそ買いに来たかと思ったらしく、4人を歓迎し、あれこれと世話をやいた。
けれど子供たちはまたしても買わなかった。 「他の店も見てから決めたい」と言って。
4人は他にチャイナ服を売る店はないかとそこいら中を探し回り、 彌敦道(ネイザンロード)を渡り、百貨店にも行ってみた。 その結果、子どもたちは気に入ったものが見つからないのにガッカリし、 親のほうは値段が高いのにビックリし、 結局のところ、またしても最初の店に舞い戻ったのだった。
3度目に店を訪れると、店のお姉さんはどうやら静観を決め込んだらしい、 あまり商品を勧めてくることもなかった。 そこで子供たちはあれこれ試着をし、ようやく購入にこぎつけたというわけだ。 たかが子供のチャイナ服一つに、彌敦道をあっちへ行ったりこっちに来たり。 その効率の悪さといったらありゃしない。
でも、そぞろ歩きもまた楽しからずや。 尖沙咀の街は、東京の新宿あたりとそれほど違っているわけでもないのだけれど、 やっぱりどこか"香港"だった。
交差点で信号が青に変わるのを待っていると、いきなり見ず知らずの人に中国語で道を聞かれ、
菜々子ちゃんはまるでその中国語から身を守るかのように
持っていた地球の歩き方を盾に受身の態勢に入った。
「ワタシハ、ニホンジンデース。チュウゴクゴ、ワッカリッマセーン!」
これはそういう意味のジェスチャーである。
「もう! どうして中国人が、日本語のガイドブックを持ってる日本人に道を聞くわけ?」
その人が行ってしまうと、菜々子ちゃんは言った。
「まあ大陸からの観光客だっているでしょうからね。中国人ならホンコニーズだとは限らないわけよ。
でもどうしてわたしたちをホンコニーズだと思ったのかしらね‥」うさぎはそういいかけてやめた。
「ああ、傘だわ。傘を持っているからかも」
「傘?」
「そう。わざわざこんなに長い傘を日本から持ってきたとは誰も思わないんじゃないの?」
「なるほど」
もっとも辺りを見回すと、今にも泣き出しそうな空の下、他には誰も長い傘を持ち歩いてはいなかった。 雨がパラついてさえ、誰も傘をとりだす気配もない。 この程度の曇り空では本降りにはならないと、本物のホンコニーズなら知っているのかもしれない。
地下鉄の入り口では、ここでも募金集めが行われていた。 お父さんお母さんのお手伝いなのだろうか、まだせいぜい7つか8つくらいのお兄ちゃんと妹が 代わる代わる拡声器を手にし、募金呼びかけの演説をぶっている。
太極拳でも見られないかと道草した九龍公園では、学生たちが龍の舞を繰り広げていた。 たくさんの西洋人観光客がそれを取り囲み、写真を撮っている。 この国に出稼ぎにきたフィリピーナたちはそんなショーには興味がないらしい、 雨の降り込まない庇の下にシートを敷きこみ、何十人何百人が集って話に花を咲かせている。
そして、こうした光景を、 いちいちものめずらしそうな顔で眺めつつ通り過ぎる、傘を手にした中国人モドキが約4名。 子供にチャイナ服を着せ、ご当人たちは中国人に変身しているつもりらしいが、 そのわざとらしいコスプレは「ワタシタチ、ニホンジンデース!」と大声で叫んでいるようなものだ。
そしてほら、やっぱり。
重慶大厦の前あたりで怪しい男に声を掛けられた。
「安いよ、安いよ! 時計のコピー!」と日本語で。