Philippines  セブ・マクタン島

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【 バトラーさん 】

アメニティ

お昼を食べたあと、うさぎはひとり部屋に帰り、シャワーを浴びた。 体が冷えてきたので、今日はもうプール遊びをやめたのだ。

ところが、そのとき事件はおこった。 トイレに入って用を足し、水を流そうとしたら、水圧が低すぎて流れなかったのである。
これはしまった。昨夜からトイレの水に勢いがないのには気付いていた。 ウェブサイトなどでも、プランテーションベイのトイレは詰まりやすいという情報を得ていた。 だからもっと用心すべきだったのに。うう、自己嫌悪‥。

まあ過去の過ちを悔やんでも仕方がない。なんとかこの状況を打開しなくっちゃ。 うさぎは何度も水のレバーを押してみたり、コップの水を足してみたりした。 それがダメだと悟ると、ちょっと時間をおいてみたりもした。果ては古ハブラシで便器の中を引っかきまわしてもみた。 が、流れない。流れるどころか、なんどもレバーを押したせいか、レバーまでがバカになってしまった。

うさぎ、大ピ〜ンチ!

これは困った。修理を呼ぼうか。でも、それはあまりに恥かしい。 だってトイレが詰まるということは、それなりのものを流そうとしたからなわけで‥。ああもう、一体どうしたら‥?! 

うさぎはなおもあれこれ無駄な努力を重ねてみたが、状況は一向に良くなる様子がない。 それどころか、時間が経つにつれ、あたりには悪臭が漂い始めた。

もうガマンできない!

うさぎは意を決して、バトラーに電話することにした。 プランテーションベイでは、滞在中の雑事や困ったことはすべて、 各棟に24時間待機しているバトラー(執事)に相談することになっている。 ここへ来る前は「執事さんがいるなんて、素敵!」と、昔の英国のお屋敷にいたような、 折り目正しい初老の執事を想像して憧れたものだが、その執事さんに頼む最初の仕事がコレとは‥。 情けないったらありゃしない。一体どういう顔をしていればいいんだろう?!

電話に出たのは女性の声だった。トイレが壊れたことを告げると、間もなく男性と女性の二人連れが部屋にやってきた。 女性の方は、朝ルームサービスを持ってきてくれたきれいなお姉さんだ。
「こちらなんですけど」うさぎが部屋に招き入れると、二人は顔を見合わせてクスッと笑った‥ような気がした。 もしかしたら「確かにそういう臭いがしてるわね」と思ったのかも。ああ恥かしい‥。

現場に到着すると、トイレの修理に取り掛かったのは男性の方だった。 彼は工具箱を開き、中からバキュームポンプ(?)を取り出し、なにやら作業をはじめた。 トランシーバを持った女性の方は、バスルームの入り口付近に待機して、その様子を遠巻きに伺っていた。 作業を見ているのも恥かしいので、うさぎはトイレに背を向け、彼女に話し掛けた。
「もしかして、あなたがバトラーさん?」と尋ねると、彼女は愛想よく「ええそうよ」と言った。
「バトラーっていうのは、男性の人がなるものだと思ってたわ」と言うと、
「ここのバトラーは男女半々くらいよ」と彼女。「バトラーは24時間待機してなくてはならないから3交代制でね。 日中のこの時間はわたしだけれど、夕方と夜半には別のバトラーが来るわ。二人は男性よ」
彼女の胸の名札には「クレア(Clair)」と書いてあった。「クレアというのは、あなたのファーストネーム?」と尋ねると、
「ええ、そう。‥というよりニックネームね、ここでの」とクレアは答えた。

トイレの修理は思いのほか時間がかかり、その間、彼女はにこやかに微笑みながら、よく喋った。 うさぎは気が紛れるのでありがたかったが、流暢な彼女の英語は速くて、ついていくのが大変だった。
「ここのリゾートは日本人客が多い?」と尋ねると、彼女は言った。
「以前はね。でも最近は韓国人の方が多いわね。あと、香港からやってくる中国人も多いわね。 でもねえ、わたし韓国人はどうも苦手なのよ。だって英語が全然通じないんですもの。 意思の疎通を図るのに、身振り手振りでもうタ〜イヘン!」
「あら、だって日本人も英語はできないでしょ?」と尋ねると、
「ああ、日本人はいいの。わたし日本語なら少しできるから。そりゃ日本語は難しいけれど、韓国語はもっと難しい。 アニョハセヨ以外はぜーんぜん分からないわ!」
「じゃ、中国語は?」と茶目っ気を出して尋ねると、
「あ、もうますます分からない!」と大げさなジェスチャーで彼女。 「でもね、中国人はいいの。彼らは英語ができるから。ヨーロピアンもね」
「ああ、ヨーロピアンも来るのね。じゃアメリカからも来る?」と尋ねると、
「アメリカねえ。以前はニューヨークからとかも来てたけれど、あの事件のあとは来ないわねー」
"あの事件"、その言葉にハッとするうさぎ。 「もしかして、最近日本人が減ったのって、去年の秋にニューヨークのテロがあってから?」
「ええ、そうよ。もう一時は全く日本人を見かけなくなったわ。最近やっとすこしづつ回復してきたけれどね」
「じゃあ韓国人は? 韓国人も減った?」と尋ねると、
「あら、韓国人ハネムーナーは毎週毎週集団でやってくるわよ。 ああでも、言葉が通じなくて、ホント参っちゃう‥」
そうか、韓国人は変わらず、日本人だけが減った。 となると、旅行会社が昨秋以降の売上減を外務省のせいだといきまくのも、あながちお門違いではないわけだ。

ともあれ、英語が苦手なのは日本人の専売特許ではないらしい。 そういえばさっきジャマイカマーケットにいた男性にも売り子さんの英語が通じていなかったっけ。 てっきり日本人だと思い、「部屋番号を尋ねられていますよ」とうさぎが日本語で言うと、 なんと彼には日本語も通じなかった。彼もきっと韓国人だったのね。
また、プールサイドなどで流暢な英語で喋っている東洋人、あれはきっと香港在住の中国人なのね。 ま、彼らが英語ができるのは当然かもしれない。香港はつい数年前までイギリス領だったのだから。

10分以上かけて、やっとトイレの修理が終わり、クレアと修理の男性は帰っていった。 こういうとき、ノーチップ制は本当に助かる。 一体どのくらいチップを渡せばいいのだろう、などと悩む必要がないのは、本当にありがたかった。

問題が解決し、すがすがしい気分になったうざぎはふと思った。 〔なんでわたしったら自己嫌悪なんか感じてたんだろう?〕って。 自分も用心が足りなかったとはいえ、トイレが詰まったのは根本的にはうさぎのせいじゃない。 建物の構造上の問題のはず。掻かなくていい恥を掻いたうさぎはむしろ被害者ではないか。 こういうときホテルに対して憤れれば、気がラクなんだけれど。それができないのは、ホレた弱みだろうか。
――まあ何でもいいや。クレアと話ができて楽しかったから。

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