スーパーから帰ってきてしばらくすると、メアリーも仕事から帰ってきた。 かつて地下室でうさぎにアイスクリームを作ってくれたメアリーの弟サミュエルも、 妻と娘を連れてやってきた。 今日はマムを囲んでのディナーパーティである。
ステラは庭のバーベキュー器具の脇に腰掛けてトウモロコシの皮を剥き始めた。 うさぎはネネとチャアにステラを手伝うように言い、自分は台所でメアリーを手伝うことにした。 今日はいろいろと持ってきてもあるのだ。 おせんべいやら裂きイカやら。 うさぎがそれらのジャパニーズスナックについて説明すると、 メアリーは小さな紙に一つ一つその説明を書きつけ、袋にぺたりと貼り付けた。
シドがトウモロコシやホットドッグに挟むソーセージを焼き始めると、うさぎは ラズベリーを洗い、日本から持ってきたそうめんを茹でようと、 大鍋にたっぷり湯を沸かし始めた。
鍋から湯気が立ち上りはじめた。おっと、換気扇を回さなくては。
「ファンのスイッチはどこ?」うさぎはメアリーに尋ねた。
「え? スイッチ? えーと、これかしら? あら違った、こっちだった」
ファンなんてあんまり使わないので、とメアリーは笑った。
「ファンを使わないの?」うさぎはびっくりして尋ねた。
「だってキッチンがこんなにきれいなのに!」
「キッチンがきれいなのは、この家がまだ新しいせいだと思うわ。
まだ建ってからほんの数年しかたっていないから」
うさぎは「ふーん、なるほど」と頷いたが、本当は全然納得しちゃいなかった。 数年にしろ、換気扇を回さずに料理をしたら、日本のキッチンならとっくに煤けている。 肉を外で焼くから大丈夫? いやでも冬はどうする? 氷点下の庭に出て肉を焼くというのか。
うさぎはドイツで一般家庭のキッチンを見せてもらったときのことを思い出した。
30年も使っているというのにピッカピカなキッチンの中で、
「すいません! このキッチン、換気扇がないんですけど!!」とうさぎがすっとんきょうな声をあげると、
ドイツ在住数十年の主婦であるガイドさんは、平気な顔をしてこう言ったものだ。
「ドイツのキッチンに換気扇なんてものは普通ありませんよ。
あれはアメリカ人の発明ですからね。
最近はアメリカの影響で、つけている家もたまにありますが、
基本的にドイツのキッチンには換気扇なんてものはありゃしません」
「じゃあ天井がすすけていないのはどうして?」と問うと、ガイドさんはその家の主婦になにやら話しかけ、
「煙が出そうなときは、あそこの窓を開けるんだそうです」と言った。
‥あのねえ。キッチンからそんな遠い窓をあけたくらいでキッチンが煤けないのなら、
日本の主婦は誰も苦労してませんて――とうさぎは内心思った。
うさぎはメアリーの、まるでキッチンのショールームみたいに広くて真新しいキッチンを改めて見回した。 そしてタメイキをついた。 ああ、おろかなるかな、日本人。 ドイツにしろアメリカにしろ、 油汚れなんて全然心配する必要のない国のキッチンをありがたがって輸入し、 日々煤と格闘しているとは‥。
さあ、そうめんが茹で上がった。 うさぎはそうめんを流水で冷やし、鍋に氷水を張っておいて、その中に入れた。 つけ汁も用意した。 メアリーは、「まあ、楽しみだわ!」と言ってそうめんをホットドッグのとなりに装い、 それに汁をかけようとした。
「ノーノー!」ときりんが注意した。
「こうやって食べるんだ」
彼はプラスチックのコップにつけ汁を少し入れ、そこにそうめんを入れて、手本を示した。
ズルズルと音をたててそうめんをすする彼の姿に、一瞬皆は固まった。
うさぎはすかさず解説した。
「いいこと? そうめんを食べるときは、音をたてるの。
それがそうめんの正式な食べ方なのよ。やってみて!」
メアリーの顔がパッと輝いた。
「オーケー! やってみるわ」
でも彼女はあまり上手ではなかった。 皆が見守る中、フォークでおもむろにそうめんを持ち上げ、汁を張ったコップに入れたはよかったが、 音を立てるのがうまくない。 そうめんをツルツルとすする、というのができないらしい。
皆はなんともいえない複雑な表情でメアリーを見守り、さて自分はトライしてみようかどうしようかと、
決めかねているようだった。
ところがその中で、唯一マムは、食べ方を合点すると、
シンディが用意した皿の上のそうめんを器用にフォークですくって汁につけ、つるつると食べ始めた。
ちゃんと音も立てている。
上出来!
「パーフェクト!」ときりんが叫んだ。
それを機会に挑戦してみようという気分になったらしい、皆もそれぞれに食べ始めた。 でも誰も、マムほどに上手にはそうめんをすすれなかった。
食事の席は、子どもと大人に分かれていた。
ネネとチャアは、ステラ、シンディ、サムの娘のシャーリーに囲まれて、
つたない英語で格闘していた。
きりんとうさぎは、サムとメアリーの話に加わった。
「姉さん、この間いい物件を見つけたんだよ。
あれはいい家だったな。
ミネアポリスから近くてね。
もう少しで買うところだった」
「ふうん、それでいくらしたの?」
「40万ドルだったな」
「40万‥! まあサム、頭がどうかしちゃったんじゃないの?」とメアリーが呆れたように言った。
「40万ドルの家なんて‥!」
「ええ、でもとってもいい家だったんですよ」とサムの連れ合いのベティが静かに言った。
うさぎは会話を聞きながら頭の中ですばやく計算した。
40万ドルというのは‥1ドル100円として、だいたい4000万円くらいのはずだ。
「そうそう、モールオブアメリカには行ったかい?」
サムがうさぎに尋ねた。
「ええ、それはもう、素晴らしかったわ!」とうさぎは答えた。
「日本にもあんなショッピングモールがあるかい?」とサムは次いで尋ねた。
「いいえ、ありませんとも!」
実際にはどうだか知らないが、とりあえずうさぎはそう答えておいた。
「ふうん、そうかい。でも何ヶ月か前にテレビで見たな。
東京に、なんかすごいショッピングモールができたとか。
ツナミ‥とかいう名前だったな」
「ツナミ??」きりんとうさぎは顔を見合わせた。
「知らないなあ」
きりんもうさぎも世情に疎い。
日本に帰ったら誰かに聞いてみよう。
食事を終えると、サムの娘のシャーリーがうさぎのところへやってきた。 彼女はネネと同い年。 生まれ月も同じだ。 マムはサムの娘とうさぎの娘が同じ月に生まれたことをとても喜んでいて、 二人が生まれたときから、 「シャーリーの成長をみるにつけ、ネネも大きくなっただろうと思う」と、 手紙に何度も書いてきたものだ。
シャーリーはうさぎに尋ねた。
「28年前のミネソタと今と、あなたの目からみて、どう違いますか?」と。
14歳の子にそう尋ねられて、うさぎはこれは真面目に考えにゃならん、と思った。
28年といえば、彼女の年のちょうど倍だ。
ミネソタ育ちの彼女が知らないミネソタを、日本人のうさぎが知っていることになる。
「そうねえ、車の交通量が格段に増えましたね」とうさぎは答えた。
それは本当だった。
本当に車が増えた。
以前はこんなじゃなかった。
28年前も一般家庭に車が2台あるのは普通だったけれど、道路がこんなに混んでいることはなかった。
「でも変わっていないところもたくさんある」とうさぎは言った。
「ミネアポリスの公園では、今でもリスが飛び跳ねていたわ」
今回ミネソタへやってきて感じたのは、 これが「空間旅行」ではなく、「時間旅行」だということだった。 やせっぽっちの中学生だったうさぎはいまや下半身に体脂肪を蓄えた二児の母となり、 地方都市ミネアポリスには全米一大きなショッピングモールができた。 マムは年をとり、ダッドはもういない。 久しぶりに降りたった異郷の地で、うさぎはアメリカと日本の距離の隔たり以上に、 今と昔との時間の隔たりを感じていた。 12時間かけて1万キロの彼方からやってきたことより、 28年ぶりにこの地に降り立った感慨のほうが大きかった。
だけど、昔と今の違いを言葉で端的に説明するのは難しい。 「28年前のミネソタと、現在との違いを書け」というレポートを課せられても、 合格点はもらえそうにない。