多言語

どうせ失うのになぜ学ぶのか

 「どうせ喋れなくなるなら、なんで勉強したんだろう・・・」 ―――これは、先日のスカイプレッスンで先生が発した問いかけです。

 その先生はアフリカ出身、アメリカ育ち。現在は学業のため、ウクライナに住んでいます。

 留学当初はウクライナ北東部に住んでおり、大学の講義も全てロシア語だったので、一生懸命ロシア語を学び、その甲斐あって一時はかなり流暢に話せたそうです。

 ところがロシアとの戦争が始まり、戦火を避けて同じウクライナでも西部に移動したら、そこはウクライナ語圏。またウクライナ語を習得しなおし。おかげでウクライナ語は喋れるようになったけれどロシア語の出番はなく、ロシア語はすっかり喋れなくなってしまったのだそう。

 それを聞いて、わたしったらバッカじゃないの、「ロシア語のスキルを失った分、ウクライナ語のスキルを得たんなら、それはそれで良かったじゃない」と、変な励まし方をしてしまった。

 「うーん、そうかな。でも同じことは前にもあったんだ」と先生。「前にフランスに8ヶ月住んでいたことがあって、その時はけっこうフランス語が喋れたのに、フランスを後にしてしばらくしてからフランス人と喋るチャンスがあって、そしたらフランス語が全然喋れなくなってた。すごいショック。どうせ喋れなくなるなら、勉強したって意味ないよね」

 分かる、分かる、その気持ち。でも落ち込んでる人を見ると、どういうわけだか反論して励ましたくなる。「大丈夫。きっと今すぐは喋れなくても、一度習い覚えた言語というのはちょっと練習すればまた喋れるようになるよ」と言いました。・・・あーあ、まるで自分に言い聞かせているみたい・・・。

 「どうせ喋れなくなるなら、なぜ学ぶのか」

 これって深遠な問いですよねえ・・・。

 深遠すぎて、いくら考えても答えが出ない。だから考えないようにしていたのに、先生、よくも余計なことを思い出させてくれたな。もう、どうしよう。

 学んで忘れて、学んで忘れて。一体、少しでもプラスの方向に進んでいるのか? それとも同じところをグルグル回っているだけなのか。

 自分で言ったように「一度習い覚えた言語は、ちょっと練習すればまた喋れるようになる」というのは真実です。

 でもその「ちょっと練習」しているうちに、また別の言語が喋れなくなるのもまた事実。

 「ロシア語のスキルを失った分、ウクライナ語のスキルを得たんなら、それはそれで良かったじゃない」というのは、全く励ましになっていない。

 ウクライナ語を得た分、ロシア語を失い、もし差し引きゼロなのだとしたら、習得にかけた労力は一体どこへ消えたのか。

 おそらく先生の言う「喋れる」「喋れない」というのは彼の感覚であって、わたしから見たら「なに贅沢言ってるの」レベルなんだろうけれど。

 でも苦労して到達したレベルを維持できないというのは、他人からどう見えようとも、本人にとっては辛い現実に違いない。

 「どうせ喋れなくなるなら、なぜ学ぶのか」。

 ・・・ううーん、これは難問。

 そんなこと、わたしに答えられるわけがない。

 先生のバカバカバカ。寝た子を起こすようなこと言わないで。

 無駄に考えてしまうじゃないかーー・・・。

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