夫はいつも良いことを言う。先日の先生の話をしたら、「どこへ行っても言葉で困らなかったんなら、努力は充分報われたじゃないの」ですと! 「今はもう必要ないんだから、喋れなくてもいいじゃない」と。
・・・そう言われてみれば、確かにそうかもしれません。
先生はもう、ロシア語でもフランス語でも元を取った。ただロシア語の場合、本当はもっと長くいるつもりだったのに、自分の意思に反しロシア語圏を出ることを余儀なくされたから、心残りがあるのでしょう。
なんだかストンと腑に落ちてしまいました。
外国語を学ぶことを、私たちは日本語で「言語習得」と呼ぶ。「習得」という言葉には、何か恒常的なものを手に入れるようなイメージがあります。
「外国語を身につける」とも言う。これも、一度身についたものは、そう簡単に勝手にどっかに飛んでいっちゃったりはしないイメージです。
学業の釣り文句はいつも「いま頑張っておけば先々報われる」。こういうニンジンを鼻先にぶら下げられ、学習者は走るのです。「今この難所を乗り切りさえすれば確かなものが手に入る」と信じて。
でも実際は。
語学力というのは、ストック(蓄積)ではなく、限りなくフロー(流量)に近いものなのではないでしょうか。「一度得たら恒常的にそこにあるもの」ではなく、「いま現在そこに流れているもの」なのでは。
だから「貯めよう」と思うとがっかりするのです。せき止めてもせき止めても手の隙間から水のごとく漏れ出して、全然貯まらないことにイライラする。
でも一方で、ある程度のフローがあれば、いま使う分には困らないわけです。しかもいくら使っても減らない。
外国語スキルは「いま貯めて、あとで使う」ができない。
貯めておけないのなら、今使わないとソンですよね。いくら使っても減らないのだし。いや、むしろ使うと増える。
語学力は「財産」にはならないけれど、「日々の糧」にはなる。先生はフランスでフランス語、ウクライナでロシア語を使って生活した。それで困らなかったのだから、学んだ甲斐は充分にあった。元はもう充分取ったのです。
ではなぜ、いま必要でない言語に未練を残すのでしょうか。
それはきっと「習得に苦労した」という記憶があり、そして「ここに貯めておいたはずなのに」と思うからでしょう。頑張って貯めたはずのものがそこにないから、ソンした気分になる。
本当はやりたくないのに「将来のためを思って」我慢して取り組むと、語学は馬鹿を見る。
財産にならない以上、将来の果報目当ての嫌々ながらの習得は丸損。学ぶこと自体が楽しくないと当てが外れ、「時間を無駄にした」とあとで泣く羽目になる。
「いま貯めてあとで使う」ができない以上、損をしないアプローチ方法は二つだけ。
- 学ぶ先からどんどん使って元をとる
- 使う必要に応じて学ぶ
学んだから使うのか。使うために学ぶのか。どちらが先でも大差はない。大事なのは、学習と使用にタイムラグを置かないことでしょう。
グズグズしてたら、語学は元が取れない。
でも学ぶことを楽しみ、使うことで元を取れば、後に何も残らなくても、腹は立ちますまい。
・・・いや、腹を立てますまい、かな(笑)。