Brunei  ブルネイ・ダルサラーム

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【 カンポンアイール再び1 】

桟橋

ブルネイで過ごす最後の日、「やりのこしたことはないだろうか」と考えたとき、 「どうしてもこれだけは」と思ったのは、もう一度カンポンアイールを訪ねることだった。

おとといカンポンアイールを訪れたときは、 全面的に運転手のカエリさんが面倒を見てくれた。 それはとても安心でスムーズだったけれど、"何か"が欠けていた。
確かに、水上家屋の家の中がどんなかは分かったし、 ハリラヤのお菓子がどんなものかも分かった。 だけど自分は常に受身で、カンポンアイールを眺める「観客」でしかなかった。

うさぎの望みは、カンポンアイールの「観客」ではなく、 「登場人物の一人」になることだった。 それには、人の手を借りてはならなかった。 人の後ろにくっついているだけではダメなのだ。 自分で行動しない限り、他人から反応が返ってくることはない。

そう、うさぎは自分が行動することによって、誰かの反応を勝ち取りたかったのだ。 そのためには、自分で水上タクシーの運転手と渡り合い、自分の足で桟橋を歩き、 自分から「ハリラヤおめでとう!」と誰かに声をかけねばならぬ。 それでもし、ハリラヤのお客として家に招かれでもしたら、 たとえ見るもの食べるものが同じだったとしても、 観客席にいる「お客」ではなく、 舞台の上の「お客の役」を演じることができるに違いない。

けれども、家族の反応ははかばかしくなかった。 ネネときりんは「カンポンアイールに行きたい人!」とうさぎが言うと、 露骨に嫌な顔をした。 チャアだけは「行く!」と答えたので、チャアとうさぎの二人で行くことにした。

バッグに和風の扇子、富士山やサクラの花の絵の絵はがき、それに折り紙、 千代紙をどっさり詰めて、チャアとうさぎはエンパイアの黒塗りのワゴンに乗った。 ホテルから「ヤヤサン」という名の市内のショッピングセンターまで、 日に数回シャトルバスが出ていたのだ。

ヤヤサンショッピングセンターで車を降りると、 対岸に渡る船着場は、一本道を隔てたすぐ側だった。 2日前に見た景色が目に飛び込んできて、すぐにそれと分かった。 うさぎたちは、今度は他の人々に混じって、一般の船着場を降りていった。

ボートに乗るお客も多いけれど、ボートの数も多い。 ほとんど待つことなく、ボートに乗る順番はすぐにやってきた。 うさぎは、前の人と同じように、船頭に「運賃は1ドルでいいか?」と確認し、 向こう岸を指差した。 たったそれだけのことで、ボートは対岸目指して全力疾走を始めた。

ほんの2、3分で、ボートは対岸の船着場に着いた。 1ドル紙幣を支払ってうさぎたちがボートを降りると、 そのボートはそこで待っていたお客を乗せ、 またすごい勢いで元の船着場へと帰っていった。

船着場は、金色の大屋根を乗せたモスクのすぐ側だった。 うさぎは、船着場の目印にモスクを使うことを思いついた。 カンポンアイールでもし道が分からなくなったら、 金色に光るモスクの大屋根に向かって帰ってくればいいのだ。

さあ、カンポンアイールの桟橋を、二人は歩き出した。 いましがたヤヤサンショッピングセンターで買ったばかりの新しい金色のサンダルで、 チャアは桟橋をスタスタと渡っていった。 うさぎもそのあとを追った。 でも、桟橋のはるか下を見ると、怖くて腰が引けた。

それは、高所恐怖症のうさぎにとって、この上ない難行だった。 一歩一歩足を前に出すのが怖い。 縦板に、横板を渡しただけの粗末な桟橋は、一歩踏み出す毎に、ガタガタ音を立てる。 時々留め金が外れて、傾ぐ横板もあり、歯抜けになって下の川が見えているところもある。 欄干などあるところの方が少なく、 よしあったとしても、それにもたれようものなら、 欄干ともろとも川に落ちてしまいそうなシロモノである。

うさぎは怖くて怖くて、「怖いよー!!」と大きな声を出した。 声を出したら、ちょっと気が紛れて恐怖が和らいだような気がした。 それで、ずっと「怖いよー、怖いよぉー!」と大声で叫びながら歩くことにした。

「エクスキューズミー?」 突然、誰かがそう言って追い抜いていった。
うさぎは思わずゾッとした。
この狭い桟橋の上ですれ違うだなんて!!
もし体が触れでもしたら、そのはずみで川に落ちるかもしれない。

一瞬の恐怖が去ると、今度はものすごい恥かしさが襲ってきた。
わけの分からない言葉で叫びながら桟橋を歩く外国人‥。
端から見ると、相当不気味な存在だったに違いない。

すれ違ったのは若い母親で、その後ろを4歳くらいの小さな坊やがついていった。 その坊やがうさぎを振り返ったときに見せた怪訝な眼差しを見たら、 顔がカーッと熱くなった。 後ろから来た人が踏み鳴らす横板のきしみにも気付かないほどに、 もしかしたら後ろからかけられた声に気付かぬほどに、 大声で叫んでいたのかと思ったら‥。

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