France  南仏コートダジュール

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【 短い一日 】

モナコ港に面したレストランにて

列車から最初に降り立った駅はマントンだった。 イタリアとの国境近くの街。 ここにやってきたのはわけがある。 骨董市を見たかったのだ。 なぜ骨董市を見たかったかといえば、それは主にままりんが 「フランスでギリシャの壺を探してくること」という使命を帯びていたからだ。 ではなぜ「フランス」に行くのに、「ギリシャ」の壺を‥?という問いにはうさぎは答えられない。 たぶん、同じヨーロッパだからだろう、としか‥。

「マントンでは毎週末、骨董市が開かれる」というのは、 どこかで聞きかじった情報の断片だった。 その情報がどこまで正しいのか、 またその「週末」というのが土曜のことなのか、日曜のことなのか、或いは金曜の午後のことなのか、 それが開かれるというカップ広場というのが一体どこにあるのか、 細かいことは何一つ分からなかったが、 とりあえず行ってみようということになった。

マントンはベッドタウンらしく、線路近くにはカラフルな集合住宅が立ち並んでいた。 駅も大きく、無人駅のエズとは違い、 券売機がたくさん並んでいて、売店まであった。 駅前も開けている。 どっちの方向に行ったらいいのか分からないので、とりあえず目抜きの大通り目指して歩くことにした。

「とりあえずマントンへ」、「とりあえず目抜きの大通り」。 あとから考えてみれば、この「とりあえず」が短い一日を更に短くする元凶だったように思えてならない。 たまたま大当たりを引くこともあるが、 単なる時間のロスに終る可能性が極めて高いソンな賭けであることに、そのときは気づかなかったのだ。

尤もこのとき、 とりあえず目抜きの大通りを目指したのは、とりあえず正解だったと言える。 贅沢に中央分離帯のスペースをとった立派な目抜き通りに出ると、「i」の文字が目に入り、 そこで良いものを得たからである。

「とりあえず"i"、つまり観光案内所に立ち寄る」というアイデアは悪くない。 「骨董市について知りたいのですが」と怪しげなフランス語で話しかけると、 窓口のお姉さんは「ああ、雑貨市のことですね!」と打てば響くように答え、 市に関して書いた紙をさっととり出した。

これぞ、うさぎたちが欲しかったものだった。 それは、マントンのみならず、ニース、モナコ、カンヌなど、 いわゆるコートダジュールといわれる地域全体について、 そこで開かれる市の種類、曜日と時間、場所を一覧表にしたものだったのである。

尤も、そんな一覧表の存在を、事前にどうして知りえたであろうか。 もしも知っていたら、マントンまで足を運ばず、エズの観光案内所に立ち寄ったとき、 とっくに入手し、ここへは来なかったはずだ。 なぜなら、その表によれば、今週はマントンの骨董市は開かれないことになっていたから――。

うさぎは観光案内所のお姉さんに愛想良く礼を言うと、 炎天下を10分ほど歩いてお疲れ気味の母親と娘をせきたて、駅まで取って返した。 道すがら、もらった一覧表を読みながら。 うさぎがフランス語を読む係、ネネが分からない単語を電子辞書で引く係、 ままりんはうつむいて歩いているうさぎがガードレールに衝突したりしないよう、注意する係だ。

時の頃はすでに2時。 早起きしたわりにはこの時間になってもとりたてて何もしていないことに焦りを感じつつ、 一行はモナコを目指した。 幸いだったのは、 まさに今日、モナコで雑貨市が開かれているらしいことだ。 どのみちモナコへは行くつもりだったのだから、これはラッキーといわずばなるまい。

でもこれも行き当たりばったりの「とりあえずモナコ」的な展開だったので、 モナコに到着すると、早速どこへどう歩いたものか分からなくなった。

ここでまた「とりあえず観光案内所」が効を奏す。 駅を出たすぐのところにある観光案内所で モナコの詳細な地図を貰い、骨董市が開かれるという「フォントヴィユ港」なるものが どこにあるのか、地図で確かめた。

但し、地図があればもう大丈夫、目的地に辿りついたも同じこと、などと思ってはいけない。 充分に詳細な地図を手にしていても、初めて訪れた街というのは恐ろしくわけがわからず、 しかも、太陽がいっぱいなこの季節に外を5分歩くともうクタクタ。 道に迷っているうちに体力が削がれ、気力までが落ちてくる。 美しい公園の中を延々と彷徨い、よっぽど諦めようかと思ったけれど、 博物館やらエステサロンに入ってその都度道を尋ね、 10分ほどでつくはずのところを30分以上かけて、 やっと骨董市に辿りついた。

けれど、そこまでして辿りついた市は、どうってことのないものだった。 確かに、そこには壺やら食器やら、古いものがあるにはあって「骨董市」と呼べないこともなかったが、 いかんせん規模が小さすぎ、欲しいようなものは何も見つからなかった。

うさぎたちはまた「とりあえず」駅方面へと取って返した。 でも、初めての街で何が辛いって、休憩する場所が見つからないことだ。 エアコンの効いたカフェなんて贅沢は言わない。 せめて木陰のベンチにほんの5分、座れさえしたら‥。

それでも旅行第一日目とあって、まだまだ気持ちは張り切っていた。 うさぎたちはネネのバレエ学校の場所を下見に行くことにし、 もう一度観光案内所に立ち寄って、バレエ学校の場所を尋ねた。

けれども観光案内所とて街のことなら何でも知っているわけではないらしい。 観光案内所というのはまさしく「観光」のための案内所なのであって、 バレエ学校なんていう、観光名所でも何でもないものがどこにあるかなんて、 知るはずがなかった。 住所を告げて探してもらったものの、「たぶんこの辺」という回答が関の山。 それでもうさぎたちはその「たぶんこの辺」を目指して歩きはじめた。 駅の近くで今日何度目かの水を購入し、覆うものなき炎天下のもと、海辺の道を。 しかもその道は延々と続く上り坂なのだ。

初めての街というのは距離感が掴めない。 ずいぶん歩いたような気がしたので、ここいらでもう一度、道を尋ねておくことにした。 オフィスビルの受付で尋ねたところ、たしかにこの近くにバレエ学校があると聞いたことがある、 とのこと。 地図を見せると、 「次の角を左に曲がって割とすぐ、その次の右に曲がる角のあたりではないか」という返答が帰ってきた。

うさぎたちはその指示に従って歩いた。 その「次の角」までは長かったが、何にしろ、その角で曲がったつもりだった。 ひたすら坂を登りながら。

けれども。 辺りの様子はどうも変だった。 「その次の右に曲がる角」というのが存在しなかったのである!

まるでキツネにでもつままれたような気分。 地図と実際が異なるなんて‥!

それでもうさぎたちは仕方がなく歩き続けた。 瀟洒な建物が見えて、ネネが「あっ、あれかも!」と叫んだ。 バレエ学校の建物は以前雑誌で見た覚えがある。 細かい造作までは覚えていないが、とにかく歴史を感じさせる瀟洒なお屋敷だった。 だからたしかに、あれがそうかもしれない。

「ヘルミタージュ」
建物に書いてあるロゴを、うさぎは声に出して読んでみた。
「ヘルミタージュ‥ヘルミタージュ? どこかで聞いたことのあるような‥。どういう意味だっけ?」
「どこかにダンスアカデミーと書いてない?」とままりん。
「‥いや、なんか違うような‥。第一、地図と食い違っているんだから、ここのはずがない」

「‥そうだ! 思い出したっ!」
「何を?」二人がうさぎの顔を覗き込む。
「フランス語ってHは発音しないんだった」
「それで?」
「ヘルミタージュじゃない。エルミタージュよ。かの有名なモナコの高級ホテルじゃないの」
「‥で、バレエ学校はどこなの?」
「知らない」
「ダメじゃん」とネネ。
「とにかくこうなった以上、瀟洒な建物をしらみつぶしに当たるしかないわね」

いくらモナコが小国だとはいえ、それはあまりに無謀な作戦だった。 「歴史を感じさせる瀟洒な建物」なんて、この界隈だけでもごまんとあったのだ。

「ここも違う、あっちも違う‥」
「‥あ! あれは?」
広い公園の向こうに、ネネがとびきり豪奢な建物を見つけた。
「ママとおばあちゃんはここで待ってて! あたし見てくる!」

ネネは鉄砲玉のように走り出した。
「あれっ、ちょっと待った‥」 うさぎがふと何かを思い出して声をあげた頃には、ネネはすでに大通りを渡り、 声の届かぬところまで走り去っていた。
「あーあ、行っちゃった‥。あれたぶんカジノだと思うんだけど」
「まあいいじゃないの。すぐ帰ってくるわよ。‥あーあ、疲れた。 さあ、あなたもここに座って、ちょっと一休みしなさい」 ままりんがのんきに言った。

久しぶりに足を休め、地図をじっくり眺めているうちに、 うさぎはなんとなく頭の中が整理されてきた。 遅ればせながら、ここにいたってやっと、今後どちらの方向へ行けばいいのかが分かったのだ。

「なぜ道を間違えたのかは分からないけれど、今いる場所は分かった。 カジノがあそこにあるってことは、今ここにいるはず。 でもって、バレエ学校の位置はこの辺のはず。 だからこの道をずっと行けば、バレエ学校の前に出るはずよ」
「本当に、今度こそ間違いない?」と心配そうなままりん。
「‥うーん、たぶん。絶対とは言えないけど。 でもこうなった以上、とにかく自分を信じて歩くしかないじゃない? あ、でもその前に、レストラン見つけたら食事をしようね。 考えてみたら、まだお昼も食べていないじゃない。もう4時過ぎだっていうのに」
「でもレストランなんてどこにあるの?」
「‥さあ」

ネネがカジノから帰ってきた。
「あれはカジノだったでしょう?」とうさぎ。
「さあしらない。でもバレエ学校じゃなかったみたい」とネネ。
「あたりまえよ。あんなヴェルサイユ宮殿みたいなバレエ学校がどこにあるのよ」

3人は、正しいとおぼしき方角に歩き出した。 道はゆるやかに下っていく。 なんだか今まで苦労して積み上げてきた貯金を食いつぶすようで、 道があっていれば良いものの、もし間違っていたら‥と思うと、うさぎは不安で不安でしょうがなかった。

しばらく歩くと、道の傍にレストランを見つけた。
「あ、ラッキー! ここで何か食べていかない?」とうさぎ。
「でもなんかやってないみたいだよ」とネネ。
「あらほんとだ、準備中?」とままりん。
「‥っていうか、ここマキシムだし‥!」うさぎ。
「"マキシム"って何?」とネネ。
「超高級レストランよ。たぶん予約しないと入れない」

「あらそう、じゃあどのみちダメね」ままりんがあっさり言ったそのときだった。 うさぎの中で、たまりにたまっていたものが爆発した。
うさぎは怒鳴った。
「ああもう! この街嫌いっ!! なによ、高級なものばっかり! エルミタージュが何よ、高級カジノが何よ。 そんなものより、バレエ学校は一体どこにあるのよ?! マキシムが何よ、どんな高級レストランがあったって、 スパゲッティ一つ食べられなかったら意味ないじゃないのっ!」

「まあまあ」とままりんがうさぎをなだめた。 「もうすぐそこなんでしょ? バレエ学校は。 あとちょっとじゃないの」
‥そう、あとちょっとなのだ、予定では。 ‥でもそうじゃないかもしれない。 今日は朝から予定が狂いっぱなし。 うさぎの予想なんて、予定なんて、全然当てにならないのだ。

それでもマキシムを過ぎてしばらくすると、ついに3人はバレエ学校の前に出た‥!

うさぎは感涙にむせんだが、ネネの反応は淡々としていた。
「‥なんか、意外に小さいね」
「そうでしょうよ」うさぎは冷ややかに言った。 「そりゃカジノと比べたらね。一体どういうのを想像していたのよ、まったく。 やっと着いたんだから、少しは感動しなさいよね」
「はい、すいません、感動します」しおらしく、ネネは言った。 相変わらず、あまり感動しているようには見えなかったが。

その後、しばらくして、食事にもありつけた。 バレエ学校の前を更に下ると、さっき必死の形相で登った坂道の途中に出たのだ。
「オフィスビルで聞いた"次の角"っていうのはここのことだったんだ!」とうさぎは叫んだ。 それは、道を尋ねたオフィスビルの、ほとんど隣と言えるような場所だった。

――ではなぜさっき、この角を見過ごしたかって?

それは、運悪くこの角地でビルの解体工事をやっていて、 道が運搬トラックでふさがれて見えなかったからだ。 よく注意して見ればそこに脇道があることに気づいただろうが、 轟音を立て、塵埃がパラパラと落ちてくるその工事現場を嫌い、小走りで通り過ぎたものだった。

でも何にせよ、終わりよければすべてよし。 バレエ学校の位置は無事確かめられたし、 こうして食事にもありつけた。

海辺のレストランでソファのように座り心地のよい椅子に疲れ果てた身を預け、 港を埋め尽くす無数の真白なクルーザーをのんびりと眺めながら 空腹を満たしてゆく気分は最高! 翌日以降もこのズッコケ道中が続くとは、このときはまだ知るよしもなかった。

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