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【 ふっくらムーン 】

フカヒレスープ

高級料理店「福臨門魚翅海鮮酒家」に行きたいと言ったのは、菜々子ちゃんだった。 なんでもそこは広東料理の名店で、日本でも有名な店なのだとか。 尤も、高級なものにはいまいち縁のないうさぎにしてみれば、 何でそんな値の張りそうな店に行きたいのか、もう一つ理解できなかった。

ガイドブックによれば、同じ料理屋でも、高級な店は「○○酒家(ザウガー)」と名乗ることが多く、 大衆的な店は「酒樓(ザウラウ)」もしくは「大酒樓(タイザウラウ)」と名乗ることが多いのだそうだ。 日本における「料亭」と「食堂」のノリであろうか。 うさぎは日本でも「料亭」などと名のつくところにはついぞ行ったことがなかったから、 香港においても、自分は「酒樓(ザウラウ)」のほうで十分だと思っていた。

ところが「福臨門酒家」で飲茶する話を菜々子ちゃんが電話で楽しそうにするのを聞いているうち、 うさぎの中にもこの中華の名店に対する親近感が芽生えてきた。 それはたぶん、菜々子ちゃんがこの店を「フックラムーン」と呼んでいたからだ。 正しくは"Fook Lam Moon"、「福臨門」を現地の発音で読むと、そんな感じになるらしい。

とにかくうさぎは、「福臨門魚翅海鮮酒家」なんていかめしい名前にはちっとも親近感を覚えなかったけれど、 菜々子ちゃんがいくらか鼻にかかったようなやわらかい声で「フックラムーン」と発音するのには負けてしまった。 正確には「ふっくらムーン」、 うさぎが脳裏に思い描いたのは、ほの明るい光を放つ、ふっくらと丸く黄色いお月さまのイメージだった。

さて前置きはこれくらいにして、と。 それは香港の大動脈・彌敦道(ネイザンロード)から一本入った脇道に面していた。 看板から後光が差しているような、威風堂々な店構えでは決してない。 きわめて控えめでこじんまりと落ち着いた感じである。

係員に促されるままに二階に上がり、 「日本で予約をいれた者ですが」と日本語で給仕の1人に告げると、 4人は奥のほうに案内された。そこは別室になっていて、静かな場所だった。 それは予約客ゆえの厚遇だったのか、それとも子連れゆえの隔離だったのか、 はたまた何の意味もないのか、それは知るよしもない。

店内は適度に賑やかで、格式ばった窮屈さは感じられなかった。
スタッフに引いてもらった椅子に腰掛け、彼が行ってしまうと、
「よかったわ。これなら子供たちが浮くこともないわね」と、菜々子ちゃんとうさぎはニッコリし、 来るべきメニュー解読に備え、 菜々子ちゃんは"地球の歩き方"、うさぎは"旅の指さし会話帳"をテーブルの下で握り締めた。

ところが、どんな重厚な中国語のメニューが運ばれてくるかと思いきや、 実際にやってきたのは、小さなペラペラの三ツ折パンフレットだった。 有難いことに日本語版。有難いことに写真入り。 二人は拍子抜けしつつもホッとして、その小さなメニューに額を寄せ合った。 ‥というのはそれが当初、一部しかなかったからだ。

けれど4人にたった一部のちいさなパンフレットではいかにも不便だ。 なので給仕に頼み、もう一部もらった。

二枚目のそれはやけにくたびれていた上に、 ボールペンで写真の上に大きなマルやらバッテンやらがしてあった。
「‥これって誰かのお下がり‥かも」とうさぎ。
「こんな小さな紙をも使い捨てにせず再利用するエコロジカルな精神には 見習うべきものがあるわね」と菜々子ちゃん。

日本語のパンフレットに書かれた品数はそう多くはなく、 どれも飲茶の定番として想像できる味のものばかりだったから選びやすかった。
「中国語のメニューにはもっとたくさん種類があるのかしらね」
「どうかしら。ここは飲茶専門店ではないから、こんなものかもしれない」
二人はてっきりこれは持ち帰ってもよいパンフレットなのだと思い、 バッテンやらマルやら書き込まれたその上に、更に自分たちがオーダーする数やらなにやらを書き入れ、 給仕が注文を取りに戻ってくるのを待った。
「やっぱりゴマ団子は外せないわね」 「そうね、二皿にしましょうか」 「大根餅も頼んでね」‥などと楽しく話し合いながら。

けれどもオーダーはそれほど楽しい作業ではなかった。
やってきた給仕にゴマ団子の写真を指し示し、「これ二つ」と言うと、 「ナイ」という答えが返ってきたのだ。
「えっ!! ゴマ団子がない?!」皆はがっかりした。
「‥ま、まあいいわ。じゃあ、大根餅」
「ナイ」
「えっ、大根餅もないの? ‥えーとじゃあ、コレ」
「ナイ」
「じゃあどれならあるんですかっ?!」と、思わず気色ばむうさぎ。 けれどもどうやらそこまでの日本語は通じないらしい。 給仕は表情を変えずにそこに突っ立ったままだ。

「これは?」
「アル」
「これは?」
「ナイ」
まさに簡潔にして明瞭。"アル"も"ナイ"も同じ表情で返ってくる。 あの〜、できれば申し訳なさそうな表情で「すみません、あいにく切らしております」とか、 にっこり笑って「ございますとも!」とか、そういうリアクションが欲しかったりなんか‥。 尤も、中国語でそう言われても分からないかもしれないけれど。

結局のところオーダーできたのは、当初予定していたものの半分くらい。 給仕が行ってしまうと、皆は力なく笑ってため息をついた。
「まあいいわ。足りなければまたあとで追加すれば」 そうは言ったものの、気づけばメニューパンフレットが、ない。
「もしかして給仕さん、持っていっちゃったの? あれってお店の備品だったのかしら?! どうしよう、書き込みしちゃったわ!!」

運ばれてきた料理は、どれもおいしかった。 特に、フカヒレスープは絶品だった。 品切れの多さも、もう一つ温かみに欠ける対応もチャラにしてしまうほどに。

「ねえ、このスープ、幸せすぎる味じゃない?」とうさぎがうっとりして言うと、
「そりゃあそうよ。ここはフカヒレの専門店なんだから」と菜々子ちゃん。
「へえー、そうなの」とうさぎ。
「だって、"福臨門魚翅海鮮酒家"の"魚翅"というのはまさにフカヒレのことよ」
「ああそうなの〜!」

スープの中には、ギョウザみたいな形をした大きな具が入っていた。 それは琥珀色のスープの中でほんのり黄色く、 ふっくらしたお月さまのようだった。 それに白いお粥の中に潜んでいた小さな生卵の黄身も。

「やっぱりここは、"ふっくらムーン"だわ!」

品切れが多かったおかげで、4人で3600円とすっかりお安く上がってしまった請求書を見ながら、 うさぎはウキウキとそう思った。

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