Minnesota  ホストマザーに会いに

<<<   >>>

【 28年という時間U 】

リス

「あなたはいつもノースブランチ(北の枝)に住んでいるのねえ」 ホームの北棟に住むマムにうさぎがそう言ったとき、 マムは一瞬、きょとんとしたものだった。 けれど、うさぎが「北ウィング」と書かれたホームのプレートをコツコツ叩いて示すと、 マムは嬉しそうに頬を紅潮させて言った。
「あら、ほんとだ。今まで誰もそんなことを言った人はいなかったから、気づかなかったわ!」

ノースブランチは、28年前うさぎがマムやダッドと一月を過ごした村であり、 マムにとっては、人生のうちで最も充実した長い時間を過ごした村だった。 一時ノースブランチを離れていたとき、マムの手紙にはいつも、 「ノースブランチに戻りたい」と書かれていた。 そしてその後、マムは本当にノースブランチに戻り、そこでダッドを看取った。

ノースブランチには大きなスーパーマーケットもあったし、目抜き通りもあったけれど、 それでもどこか「町」というより「村」に近い感じの場所だった。 ミネアポリスから40マイルほど北に上がったところにあり、 もっとずっと北に行くと、五大湖の一つスペリオル湖の湖畔にある製鉄の街ダルースに行き着く。 ノースブランチが位置する35号線というのは大きな街と街を結ぶそういう幹線道路だったが、 28年前のその道はミネアポリスを抜けてしばらくすると対向車の姿もまばらになり、 のどかな風情になった。 道の左右には森や湖や、野生の鹿が遊ぶ広い草原が広がり、ときどき妙な匂いが辺りに漂う。 「スカンクのおならだよ」と、ハンドルを握るダッドが教えてくれたものだった。

ミネソタにやってきてからのこの数日というもの、 車で出かける前、いつもうさぎはきりんに言っていた。
「きっと今日こそ、他の車を気にすることなく、のびのび走れるからね!」と。 アメリカの道路は広いはず、車は少ないはずで、 日本の首都圏よりずっと気を使わずに車を運転できるはずだった。

ところが実際道を走ってみると、どこへ行っても、前にも車、後ろにも車で、 運転手のきりんを消耗させるような往来ばかりだった。 "のびのび走れる"どころの騒ぎではない。 その現実を目の当りにする度にうさぎは助手席で「おかしいなあ」と首を傾げ、 自分の認識の誤りをきりんに詫びた。

それでもうさぎってのは本当に懲りないヤツで、 今日もノースブランチに出かける際、きりんに言ったものだ。
「今日こそ、のびのび走れるからね」と。

「ホントかよ」 きりんは全然信じていない様子で言った。 毎日そのセリフに騙されてきた彼としては、もう聞き飽きたというところらしい。
「いや、ホントに。今日こそ絶対!」とうさぎは熱心に言った。 「ほら、今まではミネアポリスの郊外ばかりだったじゃない? 今日行くのはカントリーサイドなんだから、運転も絶対ラクだって!」

ところが。 今日もうさぎは助手席で 「見てて、そろそろ道が空いてくるはずよ」ときりんに言っては、 「‥あれー、意外とまだ混んでるわねえ」と撤回し、 なんどかそんなことをやっているうちに、ついにはノースブランチに到着してしまった。 片側一車線だった道はニ車線に増え、出口付近は何キロにも渡る渋滞。 その光景は中央や東名と全く変わらなかった。

「ゴメン、こんなはずじゃなかったのに」と今日もまた言ううさぎに、 きりんはただ呆れたようにフッと笑った。 「いい加減、分かれよ。28年前とは違うんだって」と言っているように聞こえる。

確かに、もう認めざるを得なかった。 28年という時の長さを。

そりゃあメアリーが言うように 「独立記念日の三連休を控えた金曜日だから今日は特別」なのかもしれない。 その証拠に、大型トラックより、 ルーフにボートを積んでミネアポリスを脱出する家族連れの車が多かった。

でももう、個別の事情にしがみついて頑なになるのはもうよそう。
「今日は金曜日だから」
「ここはまだミネアポリスに近いから」
なんやかんや理由をつけて、「28年前のミネソタ」を探すのはもうよそう。 ここだって変わったのだ。 子どもだったうさぎが大人になり、二児の母になって、シワやらシミやらシボウやら、 "シ"のつくものをいっぱい増やしている間に、 ミネソタだって変わったのだ、と。

変わったのは、道に車が増えたことだけではない。 ミネアポリスからノースブランチへの道すがら、一度も野生のシカの姿を見なかったし、 一度もスカンクのおならの匂いをかがなかった。 どこまでも見渡す限り続いていた草原は途切れ途切れになり、 町と町、村と村の切れ目が分かりにくくなった。 東京の郊外で私鉄に乗ると、終点に着くまで家並が途切れることがないように、 ここもそうなりつつあるのだ。 28年前は、ミネアポリスを脱した瞬間というのが確かにあったのに、今はない。

極めつけが、かつてひと夏を過ごした家だった。 メアリーがその家の前に車を止めたとき、うさぎには分からなかった。 そこが「その家」だと。 なんでこんなところで車を止めたのだろうと不思議に思いつつ、しばらくボーッとしていた。 メアリーに「車から降りて、家の外だけでもぐるっと回って見てみる?」と言われて初めて気づいた。

マムたちがその家を手放してからどれくらい経つのだろう。 モスグリーンのモルタル仕上げだった外壁はブルーのサイディングに変わり、 大きな車庫が建て増しされていた。 庭は柵で囲われ、小さな子どものための遊具が置いてあった。 白いサイディングがきれいだったお隣の家だけが、持ち主は変わっても昔のままで建っていた。

一体どこまで続いているのだろうと思っていた広大な緑地には大きな建物が建ち、視界をさえぎっていた。 そりゃあ今だって、日本の首都圏にある住宅地と比べたら、比較にならないくらい広くゆったりしている。 だけど、うさぎが知っているここは、 家を背にして立つと、180度、小さな木立以外に視界をさえぎるもののない、広大なスペースだった。

うさぎはふと、自分の背が伸びたせいじゃないかと思って、少しひざを曲げてみた。 でも、そうやっても、景色は大して変わらなかった。

メアリーとマムもなにやら話しながら辺りを見回していた。
「あら、あんなところに家が建ったのね。この間来たときはなかったわ」
「ああ、あそこも工事している。何が建つのかしら」

「あなたの目から見たら、きっとすごく変わっていることでしょうね。 年に1度や2度訪れるわたしたちでさえ、来るたびに前と何かしら違ったところを見つけるもの」
「あなたがアメリカに来た頃、ミネアポリスから離れた村だった。 でも今や、ノースブランチは拡大するミネアポリスの一部よ。 ここからなら充分ミネアポリスのオフィスに通勤できるものね」 そうメアリーは言った。

変わることが良いことだとか悪いことだとか、変わったからガッカリしたとか、 そういうことではなく、うさぎはただただ、その変化の大きさに戸惑っていた。 28年という時間の大きさに。

バートンという人が書いた絵本に、「ちいさいおうち」という本がある。 とある小さな家の周辺が、村から街へ、街から都市へとどんどん様子を変えていく様子を綴った本だ。 うさぎはミネアポリスに戻る道すがら、その本のことばかり考えていた。

<<<   ――   5-1   ――   >>>
TOP    HOME