2003年5月21日 HOME、MY SWEET HOME(その3) 決断

この物件が破格に安かったわけ――。 それは、"公庫付き"の物件だったからでした。

"公庫"というのは、住宅金融公庫のこと。 そして、"公庫付き"というのは、住宅金融公庫の融資がついた物件のことです。
この"公庫付き"という物件には、 住宅金融公庫の融資を"受けたければ受けられる"のではなく、 "必ず受けなくてはならない"という決まりがありました。 こうした制約がある代わりに、 公庫付きの物件には、"この物件は優良分譲である"という住宅金融公庫の"お墨付き"がついて います。

このお墨付きをもらうには、俗に言う"ディベロッパー"(マンション開発会社)は、 建物建設にあたって、通常ならば1回で済む住宅金融公庫による検査を、 最低5回受けねばなりません。
おまけに、価格設定についても口出しされる。 たとえば仮に3000万円に設定したいな、その価格でも売れるな、と思っても、
「それでは利益が乗りすぎるからダメ。2000万円にしなさい」 と公庫にいわれれば、それに従わねばなりません。

でもこれって、買う方の側にしてみれば、願ってもないことじゃない?
価格に関しても、建物の丈夫さに関しても、安心して買えるのだから。
当時、銀行よりもはるかに低金利だった住宅金融公庫の融資をどうしても受けたくない、 っていう人がこの世にもしいたならば、話は別ですが。

特に、価格設定が公庫の鶴の一声で決まること。
これは、現在のように地価が下落ぎみのご時世には大してありがたみがありませんが、 バブル当時、地価がえらい勢いで上がっていってた時には、 購入者にとってまたとない"ご利益"でした。 だって地価の上がった"現在の相場価格"ではなく、まだ地価が安かった頃に仕入れた 土地の"仕入れ値"を元に算出された価格なんですもの。他の物件と比べると、圧倒的に安い。

逆にいえば、ディベロッパーにとってはこれほど手痛いものはないわけで、 だから、バブル時代に作られたマンションで"公庫付き優良分譲物件"はほとんどありません。 今話しているこのマンションはたまたま傾斜地に建てられていたので、 "公庫のお墨付きがないと"と、ディベロッパーが弱気になったのでしょう。 でも、さすがに割安だっただけあって抽選倍率がものすごかったと、あとで人に聞きました。

そんなわけでこの物件は公庫お墨付きの"安心物件"だったわけですが、 更にもう一つ、安心要因がありました。
それは、"保護者付き"だったこと。 ここで言う"保護者"というのは、両親のことじゃありません。勤務先の会社のことです。
不動産に関して何の知識もない、社会に出たばかりの二人が、購入するのです。 もしもこれが、名前を聞いたこともないディベロッパーから直接購入するのであったら もう少し躊躇したかもしれません。 だけど、自分の勤めている会社が間に立ってくれているのです。 騙されるんじゃないか、といった不安を感じることもなく、まさに"大船に乗った気分"でした。

二人の母たちには先に帰ってもらい、きりんとうさぎは住宅情報を買い、 念のため他の不動産屋さんも訪ねてみることにしました。
だけど、こんなに安い物件は他にはありませんでした。 同じ駅から倍以上も遠い築20年の中古でさえもっと高い。 公的融資が受けられないので、べらぼうな金利の銀行融資を受けなくてはならず、 返済期間も短いから、そうたくさんは借りられません。 試しにある不動産屋さんで資金計画を立ててもらいましたが、年収を告げたら
「残念ながら、お客様に買える物件はないようです」と言われてしまいました。

今から考えれば、その年は特別な年だったのです。
先高感から、中古価格がどんどん上がり、公庫付きのマンション価格に足を引っ張られて、 新築の分譲価格は低めに押さえれる――。 1987年という年は、史上唯一の 「首都圏における新築マンション価格が中古価格を下回った年」でした。

◆◆◆

こうして、きりんとうさぎはその日のうちに購入を決意しました。
資金は、うさぎが、自分の用意できるありったけの資金を拠出し、その残りをきりんが、 現金と融資で賄うことにしました。
これはきりんの、うさぎに対する配慮でした。 不動産の共同購入においては、「負担した金額イコール持分」となります。 不動産価格がこの先どんどん上がっていくことが分かりきっていたので、 きりんはうさぎの資産が増えるよう、持分をできるかぎり増やしてくれたのです。

でもね、興奮気味の忙しい一日のあと、夜空を見ながら二人で歩いていたら、 きりんがポツリと言いました。 「35年か‥」と。
「"車のローンが終わったら、二度とローンは組まないぞ"って思っていたのに」って。

それを聞いてうさぎはハッとしました。
ローンを組むのはきりんなのです。 これから35年のローンを背負っていくのは、きりんなのです。 まだ稼ぎ出してもいないお金を、きりんは出すのです。
うさぎは、今ある貯金と親にもらったお金を出すだけ。気楽なものです。

「‥買うの、やめよっか」

そういうセリフが喉まで出掛かりました。
うさぎは、きりんが自分ほどこのマンションに夢中でないと分かっていました。 うさぎがこんなに欲しがっていなければ、きりんはきっと買わないでしょう。 うさぎさえ諦めれば、きりんはローンを組まずに済むのです。

だけど、だけど‥。 一度そう口に出してしまったら、二度とあのマンションは手に入らない。
7階から見下ろす緑の森、道路から直接部屋に行かれる不思議。
手を伸ばしかけ、掴むつもりでいた夢は、夢のまま消えてしまう。
――そう思ったら、どうしてもその一言が言えませんでした。

◆◆◆

夜遅く、家に帰ってきたら父がいました。
その日の顛末を話し、早くも購入を決めたことを話すと、父は言いました。

「いいじゃないか、買いなさい。
不動産なんてべらぼうな金額のものは、
気が変になりでもしなければ、
なかなか買うと決断できるものではないから」

本当に。今考えると、気がおかしくなっていたとしか思えません。
一日中走り回り、精一杯あれこれ調べはしたけれど、 他の物件を一軒たりとも見ることなく、一週間前には思いつきもしなかった買い物を しようとしているのですから。
社会に出てからまだ2年ちょっと。 十万円単位の買い物すらしたことがないうさぎが、 何千万円もするものを買おうとしているのですから――。