物件を見に行った翌日、うさぎは朝一番に不動産部に電話をかけ、
購入する意志を伝えました。
「分かりました。それでは例の物件を押さえておきましょう」
電話の向こうからその言葉を聞いたときには、心底ホッとしました。
この電話が通じる前に、もし他の誰かに売られてしまっていたらどうしようと、
昨夜から心配のし通しだったのです。
そしてついに、契約の日がやってきました。
不動産部の方に付き添われ、きりんとうさぎは横浜駅近くにある
マンション建設会社のオフィスへ赴きました。
それは駅のすぐそば、まばゆいばかりの新しい立派なビルの中にありました。
スベスベのロビーを通りぬけ、エレベータで上階まで上がると、
淡い色のスーツをビシッと着込んだ女性が、
静かなオフィスにハイヒールの音をカツンカツンと小気味よく響かせながら、
奥へと案内してくれました。
うさぎの勤めている会社と、なんという違いでしょう。
うさぎが会社にスーツを着ていったのは、入社式のあとの数日だけ。
入社2年目の最近は、街に買い物に出かけるときと同じような格好で通勤していました。
それでもそれはまだマシなほう。
工場内にいたっては、
人の話し声やら電話の鳴り響く音やら、冷却装置やら印刷機やらのたてる音、
その他何とは判別のつかない音まで、ありとあらゆる音が聞こえる騒がしさの中、
"作業衣"と呼ばれるブルーの上っ張りを着込んでうろちょろしていました。
小さな部屋に案内され、椅子にこしかけて待っていると、 きりんやうさぎと年の変わらない営業さんが、 これまたりゅうした背広姿で入ってきました。 不動産部の方によれば、この方がうさぎたちの担当で、 ローンの手配から税務関係の資料作成から、 契約後の一切合切を面倒みてくれることになっているのだそう。
互いに挨拶を交わし、簡単な自己紹介を終えると、
「‥さて、ではそろそろ始めますか」とその営業さんがいいました。
そして、その言葉をドアの外で聞いていたかのような、うますぎるタイミングで、
いかめしい顔つきの中年男性が部屋に入ってきました。
その方の登場で、それまで和やかで打ち解けた雰囲気だった部屋が 厳粛なムードに一変しました。 なんでも、この方は特別な資格をもっていて、 不動産の売買契約には欠かせない人物なのだそうです。
こうして契約が始まりました。
契約というのはただ契約書にハンを押すだけかと思いきや、
いろいろと面倒な手続きがあるようです。
"甲がどうたら、乙がどうたら‥"。
法律用語をちりばめた、さっぱり意味の分からない説明が延々と続き、
うさぎはついうとうとして、きりんに肘でつつかれました。
マンションの契約が済むと、こんどは、不動産部との仲介契約が待っていました。
「えっ! 会社の不動産部なのに手数料を取るの?!」と、うさぎはここで
初めて知りました。
でも、その手数料は普通の不動産屋さんの半分で、
その分建設会社が物件価格を割り引いてくれたので、
かかっていないのと同じことだったのですが。
ようやく契約の一切合切が終わり、有資格者の男性が退席すると、
また一瞬で雰囲気が元に戻り、元気で快活な営業さんは雑談をし始めました。
「お客様とわたくしとは年齢もほとんど一緒ですね。
そのご年齢で不動産を買われるのは勇気が要ったでしょう。
でも、今は本当に買いどきですよ。
実はわたくしも先日、自社物件を一つ買いましてね――いやなに、ワンルームですがね‥」
「ではわたしはこれで」
不動産部の方がそう言って、立ち上がりました。
すると、建設会社の営業さんは彼を引きとめて言いました。
「おおそうだ、実はね、お宅にお任せしたい物件が2、3、また出たんですよ。
ほら、そこの壁に広告の貼ってある――。
いかがですかね。なかなかいい物件でしょ?」
きりんとうさぎも営業さんの指し示す、その壁の広告を見やりました。
またしても丘の斜面を利用して作られた物件です。
広いルーフバルコニーのついた部屋部屋が
なだらかな丘の斜面に背中を預け、ひな壇のように並んでいます。
なんて素敵なマンション!
その完成予想図にうさぎはうっとりし、「もしかして、早まったかも‥」と思いました。
こんな素敵な物件が次に出てくると知っていたら‥。
けれども。
「いえ、今回はけっこうです」と不動産部の人は気乗りしなさそうにあっさりと答えました。
「この価格帯じゃ、とてもとても‥。ウチの社員では手がでませんから」
改めて壁の広告を見直すと、そこには「最多価格帯」の文字とともに、 うさぎたちの買ったマンションよりも、 1000万円ちょっと高い値段が書かれていました。
1000万、1000万‥。
‥どう考えても無理よね。
今契約した物件が精一杯なんだもの‥。
うさぎはそう納得するよりほかにありませんでした。