2003年6月18日 バレエ社会(後編)

バレエの世界は、実に心地よい狭さです。

コンクールなどに行くと、どこかで見た顔がそここちらに見られます。
発表会に男性ゲストとして出演してくださったダンサー、 近くのバレエ団を率いる先生、 バレエ雑誌で見たコンクール指導に定評のある先生。 近所のバレエ教室の発表会で重要な役どころを担っている子、 前にもこういった場で見かけた子‥。

うさぎは一方的に知っているだけですが、 当事者である子どもたちには双方向の知り合いがいます。 どこかの講習会で知り合った子や、 バレエサイトの掲示板で知り合った子など。

これが決選進出レベルの子ともなると、 知っている人が増えるだけでなく、自分自身が人に知られるようになってくるのでしょうね。 奨励賞でも取れば、バレエ界での有名人になること請けあいです。

こうしたバレエ社会を見ていると、 「ああ、"○○界"といわれる世界はこういう世界なのか」と思います。
実はね、昔は不思議だったの。 たとえば、アガサ・クリスティの描くイギリス社会で、 海外リゾートや豪華客船にたまたま来合わせた人たちがおしゃべりをしているうちに、 すぐに共通の友人が見つかるのが。

「○○大佐ならよく存じ上げておりますよ。 わたくしの姪が大佐のご子息に嫁いでおりますので」
「おお、大佐なら××男爵のパーティでご一緒したのがご縁で、よく一緒に狩に行きます」 みたいな感じ?

クリスティの小説では、こういう偶然が同時にいくつもいくつも起こって絡み合います。 たまたま集ったメンバーなのに、なぜかみんな繋がっている。
これって、地域社会やもともと組織された場ならともかく、 通常の雑多な日本の社会ではありえないことです。 一つや二つの偶然ならともかく、 みんなが鎖のように絡み合っている図というのはね。

最初は、小説だから偶然がいっぱいなのかと思っていましたが、 どうやらそうではないみたい。 必然的に偶然が起きる程度の狭さなのだと、いろんな本を読むうちに知りました。
イギリスは厳密な階級社会で、階級の幅が狭いから、それぞれの社会も狭いのですね。 また、クリスティの小説に出てくる登場人物たちは、 殊更にそういう偶然を探し求めているような気がします。 偶然を求めて、いろんな人と必死に会話しているようにも見えるのです。 こういった"必然的な偶然"を見つけることによって、 自分がその社会の一員であることを確信したいのでしょう。

法曹界、経済界、芸能界など、日本にも"界"のつく世界はいろいろありますが、 バレエ社会も"バレエ界"といった雰囲気の一つの社交界です。 社交界につきものの微妙な階級差までがちゃあんとあるし。
もちろん、その頂点は、トップダンサーつまり"踊れる人" もしくは"かつて踊れた人"であり、次にくるのが、 将来性のある金の卵たちと、その指導者であるバレエの先生方、 その下に普通の子どもたちとその指導者たちがきます。
うさぎのようなシロウトの親たちはこのピラミッドの底辺ですらなく、 このバレエ社会を取巻いてヒラヒラしながら中を覗き込んでいるギャラリー といったところでしょうか。

そしてギャラリーたちは、このバレエ社交界に関してよく喋ります。 ウワサ好きのお喋りスズメがピーチクパーチク。 さながらクリスティの小説に出てくるメイドさんたちのようなかしましさだわ、 と、うさぎは我ながら思います。

「あら、あちらに○○バレエ団のプリンシパルでいらした××先生がお越しだわ。 お弟子さんをつれてらしたのかしら」
「そうらしいわよ、今回は10名も引き連れて来られたのだとか。 ほら、さっき"デジレ王子"で予選を通過したあの男の子、××先生のところの お弟子さんですってよ」
「そうなの、あの方もそろそろダンサーとしては良いお年だから、 後進の育成に力をいれなくてはね――」なんてね。

そういう"事情通"になることによって、うさぎたちギャラリーは、 自分もこのきらびやかなバレエ社会の一員であるかのような錯覚に 陥りたいのかもしれません。