2003年9月4日 モノの見え方感じ方(2) 言葉

先日、ちょっとショックなことがありました。
‥っていう書き出しはきのうと同じ。 いやもう、世の中ってショックなことが多くてねえ‥。

今日は何かっていうと、うさぎが購読しているメールマガジンにこんな記述があったこと。

「ことばの今に異議あり」8月5日号の“翻訳ことばのおかしさ”の中で触れておられましたが、 小生も普段の日本語としては今は使われない「〜だわ」「〜したまえ」といった言葉遣いが、 特に吹き替え映画などで頻繁に用いられるのはなぜだろうかと長い間疑問に思っていました。

この文章の全体の主旨は、 「テレビドラマや映画の吹き替えが、普段の日本語と異なるのはなぜか」 というもので、それに関しては別にどうということもありません。 ただ、うさぎが気にしているのは、ココ!

普段の日本語としては今は使われない「〜だわ」「〜したまえ」といった言葉遣い

という部分です。

‥あの〜、「〜だわ」っていう言い方、
わたしは普段の日本語として使っているんですけど〜??

ってカンジ〜?

確かに、「〜したまえ」っていう言葉づかいをする人はうさぎの周りにもいません。 洒落っ気を含んで使われることはあっても、ごく日常的に使われている場面はなるほど、 洋画の吹き替え画面でしか見たことがないような気がする。 それだけに、自分が普段使っている「〜だわ」という言葉づかいが、 「〜したまえ」と同列に並べられていることがショックだったのです。

もしかして、うさぎの言葉づかいってえらく古臭い?
ひょっとして、うさぎってシーラカンス?

って思ってガックリきちゃった。 だって、「〜したまえ」なんて言い方を、きょうびの日本でマジでする人がいたら、 うさぎ自身、シーラカンスだと思うもん。 世間から隔絶されて育ったか、はたまた俳優志望?とかって思うもん。 それと同じことを、自分が他人から思われてるかも〜?、って考えたら、 かなりショックなものがありました。 だって、まず言葉遣いからして、 「なんだァ、コイツ?」なんて思われたら、 何を語るかをさておき、まず分が悪いじゃない?

‥まあ、だからといって、明日から「〜だわ」という言い方をするのをやめようと思った わけでもないのですが、言葉って難しいなあと、改めて感じました。

また、この一件がきっかけで、何年も前にあったことを思い出しました。
それは、PTAだったかなんだったか、子供関係で親たちが集まったときのこと。 誰かに気が変わりやすいことを指摘されて、こう言ったんですよね。

「ハハハ、わたしって節操ないから〜!」

って。 そしたら、周りにいた人がみんな、固まってしまった。 一斉にしーん、としちゃったんです。
そして一人が恐る恐る言いました。

「それは‥、比喩的な意味なのよね?」

と。 そういわれてうさぎ、初めて気がつきました。
「どうやらとんでもない意味に取られたらしいぞ」ってね。

うさぎは「節操」という言葉を、「志操」というような意味で使ったのだけれど、 周囲の人はおそらく、「貞操」という意味に取ったのに違いありません。 つまり、「節操がない」というのは、「貞操堅固ではない」という意味にとられたのではないかと。

これには、とりあえず「ええ、そうよ、もちろん比喩よ〜」などと答えてその場を丸く収めつつ、 考えてしまいました。

「節操」ってイコール「貞操」って意味だったかしら

と。
比喩的も何も、「節操」っていうのは、 「自分の信念に忠実」っていうような意味だと思ってたんだけど――。

そして、家に帰ると早速、広辞苑を引きました。

信念を堅く守って変えないこと。みさお。

と、広辞苑に書いてあるのを見たときは、ホッとしましたね。
ああ、わたしの使い方は間違っていなかったんだわ、って。

でもうちの辞書って昭和51年改訂版だし、辞書にどう書いてあろうが、言葉なんてのは 伝わらなきゃ意味がない。 その場にいた7〜8名がみな、そういう意味にとったのなら、 少なくとも、その場においては、そっちの意味の方が正しかったと言えはしないだろうか――、そう思いもしました。 そして、それっきり、「節操がない」という言い方は怖くてできなくなりました。

ネットで自分の書いたものを公開していると、自分の思うところを正確に伝えることは、 そう簡単ではないのだと思い知らされます。 相手が一人だってなかなかうまく伝わらないのに、 ネット上の相手は不特定多数。 それぞれ違った文化を持ち、それぞれ違った人生を歩んできた人々を相手に、 何を基準に言葉を紡げばよいのでしょう?
自分の使う言葉が標準的な日本語であると、何をもって信じればよいのでしょう?

――こういうことを考えはじめたら、とてもめまいを起こさずにはいられません。 本気でこういうことを考えたら、 ネットで言葉を発信するなんてことは続けられなくなります。

続けるためには、 「まあ、きっとなんとかなるさ」という根拠のない気休めと、 「当たらずとも遠からず」程度の伝わり方をすれば満点と思うくらいの寛容さが必要。

ときどき、自分にとってぴったりくる表現と、より人に伝わりやすい表現との間で、 ジレンマに陥ることのあるうさぎです。