2003年10月14日 発表会の風景(1) スイッチ

昨日はバレエの発表会でした。 我が家ではうさぎ以外、全員がバレエを習っているので、 その発表会は一年のうちで最も大事な大イベントです。

3人の習っている教室では、毎年秋に発表会があります。 バレエの発表会前はとても忙しい。 半年前から振り付けに入り、一月前ともなると通常の練習日に加え、 土曜や日曜にも臨時レッスンが行われます。

バレエ教室の生徒である3人の忙しさはもちろんですが、 世話役にすぎないうさぎも忙しくなります。 次から次へと万単位で出て行くお金の管理、 舞台稽古のときの送り迎え。 レンタルの衣装は、着る人に合わせてあわせて微調整が必要、 その上修復すら必要なこともあります。 3人も発表会に出る人がいると、そういった雑用の量もハンパではありません。

今年も、発表会の前夜になって、 きりんが「スカーフを衣装に留めつけてくれないかな」と言ったら、
「そうだ、あたしも白鳥の羽根をチュチュの胸元に留めつけて欲しいの」とネネ。
「あたしの衣装、花が取れかかってるから付け直して」とチャア。
「どうしてもっと早くに言わないの」とうさぎはいいつつも、寝しなに針を持ちました。

当日ともなると、本人たちはもちろん、うさぎの忙しさも最高潮に達します。 子供の化粧や衣装の着付けを手伝ったり、写真やビデオを撮ったり。 バレエの発表会は毎年、うさぎにとって一年のうちで最も忙しい一日です。

ただでさえ世話のかかる子供が二人も出ると忙しいのに、更に、 母親には、受付に立ったり、来訪者から預かった花束を楽屋に運んだりといった仕事も 割り当てられます。 ネネたちの教室は、生徒の大半が大人という、バレエにしては珍しい教室で、 母親の数が少ないから一人がこなさなくてはならない仕事の量がどうしても多くなります。

あまりの忙しさに、どうしてもあちこちに穴ができます。 そうした穴は、知らない間に誰かが埋め合わせしてくれます。 みなが忙しいから、ちょっとでも手が空いたときには、 自分の子であれよその子であれ、手を欲しがっている子の面倒を皆で見合うのが、 毎年の慣例なのです。 トウシューズのリボンの先を縫ってとめつけたり、 髪の後れ毛を髷に入れ込んだり、カメラのシャッターボタンを押してあげたり。 皆で助け合わないと、うまく回っていかないのです。

さて今年、他の3人に一足遅れてうさぎが楽屋に到着すると、 ネネもチャアも、すでに髪をシニヨンに整えていました。

チャアがちょっとプリプリして言いました。
「ママが遅いから、もう他のお母さんに髪をやってもらっちゃったからね!!」
ネネの方はおっとりと言いました。
「あたしは自分で初めて結ってみました。ねえ、けっこううまくいってるでしょ?」

昨晩突然命じられた仕事があり、お店が開く時間を待って、うさぎは 必要なものを買いに外に出ました。
「買い物に行く」と言ったら、
「あ、それなら、APSのフィルム3本、お願い」
「わたしは健康サンダル〜!」などと皆に頼まれました。

しばらくして会場に帰ってくると、チャアはおかんむり。
「もうママ、どこへ行ってたの? どうしてすぐにいなくなっちゃうのっ!」
いつもは何でも自分でやりたがるチャアだけれど、 衣装の背中のホック、髪かざり、お化粧。 舞台に立つための身支度には、自分ではできないことがいっぱいです。 "専属召使い"がいつもそばについていないと不安なのでしょう。 もともとせっかちで、何でも人より先に済ませたいチャア。 そもそもみんなが独占しているお母さんの手を、 自分だけはネネと分け合わなくてはならない。 それでみんなに遅れをとるのが怖いのでしょう。

買い物を済ませて楽屋に戻ると、今度はドーラン塗りの仕事が待っていました。 子供たちの腕から首から胸のあたりまで、素肌が出る部分はすべて明るい肌色を塗るのです。 夏休みの日焼けがまだ残る子らは、これで白い肌の西洋人に変身です。 チャアとネネはすでにお化粧が済み、顔も西洋人になっています。 ネネは大げさな付けまつげをつけ、目の大きさが3倍くらいになっている。 鼻の脇に濃い色のシャドウを入れたチャアはちょっとこわい顔に仕上がっています。

ドーラン塗りのあとは、写真撮影に付き合わなくては。 写真撮影は、ロビーに作られた特設スクリーンの前で行われます。 今回使用する3着の衣装をとっかえひっかえしては、スクリーン前で 役柄に合ったポーズをとり、写真屋さんのお姉さんに撮ってもらいます。 みんな並んで順番に。

ところがチャアは、なぜだかとっても急いでいる。
「そんなに急がなくてもまだ時間はあるわよ」といいつつ、 衣装の背中に、天使の羽を縫いつけようとしていたら、
「あーあ、行っちゃった。ママがグズグズしてたせいだ」とチャア。
「行っちゃった? 慌てなくても、写真屋さんは当分ここにいるわよ」と言うと、
「写真屋さんじゃない! ビデオ屋さんが行っちゃったのっ!」

どうやらチャアは、自分が写真を撮ってもらっているシーンを、 ビデオ屋さんに取材してもらいたかったようです。
「ママっていつもグズグズしてるし、すぐどっか行っちゃうし。 だからチャアはまた今年もビデオ屋さんに撮影してもらえなかった」

‥あーあ、悪いことはみんなママのせいなのね‥。

チャアもネネも今回着る衣装は3着。 二人が衣装を着るのを交互に手伝っていると、 時間はあっという間に過ぎていきます。 しかも。ネネの後ろのホックをとめてやると、‥ゆるい! 一週間前、体にあわせてホックの位置を直したはずなのに。
「あなた、痩せた?」と尋ねると、「うん、一キロ落した」ですと。 これではもう一度縫い直さなくては。 たぶん、他の衣装も全部‥。

そうこうするうちに、

「ゲネプロ5分前でーす!」

というスタッフの声。

もうそんな時間?!

そこに集っていた子ら、そして母親たちは慌てふためきました。 うさぎも慌ててチャアの髪から髪飾りを外し、 別のに付け替えようとしました。 そこにマイクで先生の声。

「子供たちー! 一体どこへ行ったの! 早く!」

大変! ゲネプロ開始を少し待ってもらわないと。 みんなしたくがまだです。
「すみません! 今ロビーで着がえています! あと3分ほど待ってください!」 チャアの頭を放って、うさぎはそう先生に言いに行きました。

ロビーに帰ってくると、すでにチャアの頭には新しい髪飾りが乗っかっていました。
「もう、ママったら! 途中でどこに行っちゃうの!!」と、 チャアは不機嫌そうに言いました。 「ゲネプロや本番で衣装を着がえるときには絶対楽屋に戻ってきてよ! 絶対だからねっ!」 そう言い置いて、チャアは舞台袖に上がっていきました。

この教室のゲネプロは、ゲネプロらしくありません。 先生が最後の指導を入れる場です。 先生は体はウォーミングアップの柔軟体操をしつつ、口は、手に持ったマイクに向かって 立て続けに喋ります。
「〇〇ちゃん、もう少し立ち位置ひだり! 照明さん、もうすこし明るめに。 △△ちゃん、体を引き上げて! 目はどこを向いていますか。観客の方を見て! ××ちゃん、顔が怖い! もっと笑って、リラーックス! ■■ちゃん‥じゃなかった、◎◎ちゃん、シューズのリボンが出ていますよ‥云々」 のべつまくなしに喋りつつ、先生は床に足を広げ、 前にベタっと倒れたり、後ろに反ったり。 今日は一つの時間を二重に使わないと到底足りません。

うさぎはこの先生が大好きです。 二十歳代の頃から、60人もの大所帯を一人で率いているこの先生は、 身近にいる人の中で、うさぎが最も尊敬している女性です。

その先生が、発表会が近づくにつれ、変になってくるのは例年のこと。 顔に疲れが見えてきて、だんだん言っていることが支離滅裂になる。 時間や場所を間違えるのは日常茶飯。 同じことを尋ねた3人が、全部違うことを言われるなんてことも珍しくはありません。 会場のことから衣装のことから、照明、舞台装置エトセトラ‥。 考えなくてはならないことが多すぎて、きっと細かいことまで気が回らなくなるのでしょう。 だからこそ、うさぎは少しでも先生のお役に立ちたいと思うのです。

チャアとネネがそれぞれ一曲踊り終えると、うさぎもロビーに散らかった荷物をまとめ、 楽屋に取って返しました。 チャアの二着目の衣装を着せつけなくては。 他の人が踊っている短い時間の間に、髪飾りを付け替え、 衣装を着替えて背中に羽根を縫いつけ、 バレエシューズをトウシューズに履き替えて、 そのリボンを糸で留めつけなくてはなりません。

トウシューズのリボンを縫おうと、針に糸を通すと、うさぎは手が震えました。

いそがなくっちゃ。あと5分でこの仕事を終えなくちゃ‥!

気持ちが焦って、針を持つ手が震え、自分の指を刺してしまった。 血が滲んで、トウシューズのリボンを赤く染めました。
「ママ! リボンが!」とチャアが叫びました。

ところがその時、チャアの中で、スイッチがカチっと切り替わった。

「‥ごめん。ママ、痛かったでしょ。ごめんね」

と、チャアは言ったのです。

「大丈夫、まだ時間はあるから。ゆっくりやっていいよ」

と。

◆◆◆

ゲネプロが終わったのは、開場のわずか10分前でした。 そしてこの10分の間に、集合写真を撮らなくてはなりません。 最後のシーンが終わると、生徒たちは一番好きな衣装に着がえようと、 バタバタとそれぞれの楽屋に駆け込んでいきました。 先生がマイクで叫びました。
「えっ!! どこへ行くの、みんなっ!  着替える? そのままでいいから早くして!」

でも、大人も子供も、みなそれには耳を貸しません。 すでに着替えるのに夢中です。 うさぎも、ネネとチャアの衣装を着替えさせるのに夢中でした。

ネネとチャアの準備を終え、舞台を見に行ってみると、 着替え終わった生徒から順に、集合写真の列に並び始めていました。 ところが、肝心の先生がいない。「そのままでいいから早くして!」と言ってた先生が。

すっかり皆が揃ったところに、最後に先生が登場しました。 どうやら先生も着替え、ついでに化粧も直してきたみたい。
「もう〜! 先生、遅い〜っ!」と、皆が叫び、 その瞬間、朝からピリピリと急いていた場の雰囲気がふっと緩みました。

この写真撮影が終わったら、これからいよいよ本番です。