昨日、 プリントサービスに出しておいたデジカメ写真が出来上がってきました。
画面上で見るときれいなデジカメ写真もプリントアウトするとどうかな、 という懸念がありましたが、結果は想像以上によい出来栄え。 本当にきれいに仕上がっていました。
200万と少なめの画素数も、Lサイズに於いては問題なし。 キメの粗さは感じませんでした。 色も実に鮮やかできれい。 銀塩一眼レフ(Olympus L-10)で撮った写真よりもむしろ鮮やかです。 この2台のカメラ、銀塩とデジカメで撮った同じ場所の同じアングルの風景写真を2枚並べ、 「どちらがきれい?」と尋ねたら、おそらくデジカメの方を選ぶ人の方が多いでしょう。 特に夜景に到っては、銀塩で撮ったものはデジカメの足元にも及ばない。 完全にデジカメの勝利でした。
でもね、「ならば完全に銀塩を捨ててデジカメに切り替えたいか」と言われると、 そんなことはない。 やはり銀塩でなくては、という場面もありました。 だってデジカメの写真は、なんていうか、「きれいすぎる」んです。 鮮やかな色、くっきりと際立つ形、それが時にわざとらしく感じられるのです。
たとえば空。 デジカメで撮った風景の空はどれも ポスターカラーで塗りつぶしたみたいに均一で、まるで後ろに壁が立てかけてあるかのよう。
左はデジカメ、右は銀塩で撮影。
それに肌。デジカメで撮った人間の肌は、まるで血の通っていないロウ人形のよう。 ロングでは気にならないけれど、アップともなると、ちょっと違和感を感じました。
左はデジカメ、右は銀塩で撮影。
うさぎが思うに、 たぶんこれは記憶方式、つまり"デジタル"と"アナログ"の違いではありません。 「デジカメだからできないことがある」わけでもない。 むしろデジカメは「余計なことをやりすぎている」のではないか、と思いました。
つまりデジカメは、、写真をきれいに見せるためにユーザから何も言われなくても、 撮影した画像に対し、様々な処理を自動的に施してしまうのではないか。 きれいな写真になるように、コントラストを調整して彩度を上げ、 ノイズを消してアンシャープマスクをかけ、 くっきり鮮明に仕上げてしまうのではないか。
そしてたいていのシチュエーションでは、それがプラスの方向に働くのです。 だって、くっきり鮮やかに仕上がった写真を見て、誰がカメラに文句を言うものですか。
だけど「肌」や「空」、或いは「布」といった普段見慣れたものに対する人間の目は厳しく、 ほんの少しの補正をかけただけでも、何となく違和感を感じとってしまうのではなかろうか。 つまり、肌の温かみや、生地の柔らかさといった「質感」は、もしかしたら、 デジカメが"ノイズ"と見なして消し去ったものの中に含まれていたのではなかろうか、と。
これはあくまで素人の当て推量にすぎません。 だけど当たらずとも遠からずといったところではないでしょうか。 だってデジカメは普通の写真とは違って、紙の上のみならず、 ディスプレイ上で見ることが前提のメディアなのですから。
実はうさぎ、写真をウェブ上にアップするようになってから、 紙の上ではきれいに見える写真も、ディスプレイ上では地味に見えることを知りました。 ディスプレイ上できれいに見るためには、取り込んだ画像に補正を施し、 少し派手めに仕上げる必要があるのです。
でもデジカメで撮った画像は、まるで「補正済み」のよう。 本当に手間ナシです。何もしなくても映える。 これは、うさぎの代わりに何者かが画像に補正をかけてくれているとしか思えません。 きっと、デジカメで撮った人間の肌がなんとなくロウ人形のように見えるのは、 空の色が妙に均一に仕上がるのは、そうした補正の"シワよせ"なのです。
でも、デジカメにもそうした"シワよせ"があるくらいでちょうどいい、とうさぎは思います。
だってたまにはファインダーを覗き、
子供のアップくらい、気持ちを込めて撮りたいじゃあないですか。
ファインダーを覗かずに撮れるという手軽さは、デジカメの素晴らしい利点だと思うけれど、
ファインダーを覗き、手間暇かけて撮ることにも意味がある。
気持ちをファインダーに集中し、被写体を慈しみ、
フィルムという犠牲を払って一枚一枚大事に撮ることも、大事にしたいと思うのです。
使用デジカメ:nikon coolpix 2100
おわり
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