2003年11月13日 いつか言葉にできるまで

トップページのリニューアルに後ろ髪ひかれつつも、 今日は用事があって、午後2時間ほど出かけました。

家に帰ってきたとき、うさぎは張り切っていました。 出先でチカッと心の動いたことがあり、今日の日記にはそれを書こうと思ったのです。 出かける前はトップページのリニューアルのことで頭がいっぱいだったのに、 それが後回しになってしまったほど、書きたいことができたのです。 「今日の日記はこの話題にするから」と友達へのメールに書いたほど、 うさぎは書く気満々でした。

ところが。 頭の中でいくら転がしても、それはうまく言葉になりませんでした。 いつもなら、煮詰めていくうちに、何かしらとっかかりが見つかり、 それを転がすうちにまとまってくるのに。 そう、ちょうどホワイトソースを作るみたいに。 バターでいためた小麦粉に、すこしづつ牛乳を加えてのばしていくような具合に。

だけど、今日はダメでした。 煮詰めても、煮詰めても、行き詰まってしまう。ダマになってしまうのです。 うまく繋がっていかない。言葉にならない。

よそいきから部屋着へと着替えながら、 顔の化粧を落としながら、 デジカメの画像に縮小をかけながら、 掲示板にレスを書きながら、 洗濯機を回しながら、 ネネとチャアを迎えに自転車を夜道に走らせながら、 鶏肉を焼きながら、 椎茸の石突を取りながら、 お風呂にお湯を張りながら、 ずっとそのことばかり考えていたけれど、結局ダメでした。 気持ちに馴染む言葉はついに見つかりませんでした。

うさぎはガッカリしました。 自分の表現力のなさに。 おそらく言葉にならないのは、表現力が追いついていないからなのです。 言葉にする力量が、表現したい思いに追いついていないのです。

うさぎは悔しくて、たまりませんでした。 書きたいことがあるのに、書けないなんて。 それで何とか無理をしてでも書こうと思いました。

だけど、そんなとき、誰かの言葉を思い出しました。

いつか言葉にできるようになるまで待ちなさい

という。

それは誰が言った言葉だったでしょうか。 しばし考えるうちに、思い出しました。 なんのことはない、うさぎが自分で言ったのです。

それは20年ほど前のこと。 うさぎはまだ学生で、家庭教師のアルバイトをしていました。 教えていた子は3つ年下の高校生。 活発で快活で、とても感性豊かな女の子でした。 うさぎはその子に対してその言葉を発したのです。

彼女はよくうさぎに、学校での話をしてくれたものでした。 その学校生活はまるで少女漫画のよう。 好きな男の子にはなかなか思いを打ち明けられず、 他の男の子からはしばしば思いを打ち明けられる。 バレンタインチョコを好きな男の子に渡すチャンスを見つけられず、 借りたジャージを返すフリして投げたら、 チョコだけ途中で落ちてしまい、皆の前で拾うに拾えずおじゃんになった話、 彼に誕生日のプレゼントを渡そうと部活の帰りに待ち伏せしたら遅くなってしまい、 ドブに落ちて靴をなくしてしまった話、 まあ次から次へとよくそんなハプニングが起こるものだと思うくらい、 楽しいエピソードがいっぱいでした。 うさぎはおやつの時間におせんべをパリパリやりながら、 彼女から楽しい学校生活の話を聞くのが楽しみでした。

ところがある日、彼女がはれぼったい目で、 クラスメートのお通夜に行ってきた話をしてくれたのでした。

亡くなったのは、彼女に恋の告白をしてきたとつい先週、聞いたばかりの男の子でした。

「七瀬くん、学校の登校途中に車にぶつかったんだって。 頭を強く打ったけど、そんなにひどい怪我だと思わなかったらしくて学校に来たの。 でも途中で気分が悪くなって、病院に運ばれて、意識不明になって、そのまま死んじゃった。 お通夜ではみんな泣いてたよ。女の子はみんな泣いてた。 でもわたしは泣けなかった。なんだか信じられなかったの。 だって先週、わたしに告白してきたばかりなんだよ」

「ほんとは断わろうと思ってたの。 嫌いじゃないけど、他に好きな男の子いるんだもん。 でも、死んじゃうって分かってたら、付き合うって言ってあげればよかったかなあ、とか、 お通夜の席でグルグル考えてた」

「家に帰ってきて、日記を書こうとしたの。 "七瀬くんが死んでしまいました。お通夜ではとても悲しかった"って書こうとしたの。 でもそれはウソのような気がしたの。 "悲しかった"っていうのとはちょっと違う気がした。 だって涙だって出てこなかったし。 みんな泣いていたのに、あたしは泣けなかった。 ずっと考えていたの。どうして死んじゃったんだろうとか、 あたしが付き合うって返事してたら、運命が変わって死ななかったんじゃないかなとか、 どうしてあたしはみんなみたいに泣けないんだろうとか」

「日記を書こうとしたら、そのとき急に泣けてきた。部屋で一人ですっごく泣いた。 どうして"付き合う"って言ってあげられなかったんだろう、って。 でも、しょうがないとも思った。だって他に好きな男の子がいるんだもん。 七瀬くんって、そんなに親しかったわけじゃないんだ。 だから、死んじゃってすごく悲しいかっていうと、それは違う気がする。 辛いとか、寂しいとか、そういうのも違う。 でも、先週はいたのに、どうして今はいないんだろう、って不思議なような、 どうしてなんだろう、っていうか‥」

「ねえ、先生、あたし日記になんて書けばいいんだと思う? どう書いたらいいんだろう? どうしたら本当の気持ちが書けるの?」

うさぎは言葉を失いました。彼女の感性に圧倒されていました。 "悲しい"という言葉に収まりきれないその感性に。

そしてそのときしばらく考えた末に、 うさぎは彼女に向かってそのセリフを発したのでした。

いつか言葉にできるようになるまで待ちなさい

と。
「日記にはそのままお書きなさいよ。今わたしに話してくれたことを、そのまま。 "悲しい"とか、"寂しい"とか、そういう風に纏めなくていいのよ。 日記なんだから、学校に出す作文じゃあないんだから、 "感想"を書く必要なんてないんじゃないの? あなたがお通夜の席で見たこと、聞いたもの、思ったこと、泣けなかったこと。 部屋で泣いたこと、日記にうまく書けなかったこと。 今話してくれたことをそのままお書きなさい。 もしかしたら、何年もたって日記を読み返したとき、 言葉にできるようになるかもしれない。それまでお待ちなさいよ」

うさぎはその時、ただただ勿体ないと思ったのです。 彼女の豊かな感性を"悲しい"とか"寂しい"といった言葉で丸めてしまうのは勿体なさすぎる。 "悲しかった"と日記にひとたび書いてしまったら、 その言葉の範囲内に収まりきれない気持ちが失われてしまうような気がしました。 今の感性をそのまま温存して欲しかった。 いつかもっとちゃんと言葉で自分の気持ちを表現できるようになるまで、 その感性をそのままの形で残しておいて欲しかった。 だから、まだまだ足りない表現力の範囲内で適当に纏めて欲しくはなかったのです。

いつか言葉にできるようになるまで待ちなさい

その言葉は20年の時を経て、自分に返ってきました。

貧しい表現力の範囲内にある言葉で手っ取り早く感性を丸めてしまうのは勿体なさすぎる。 だから今日、うさぎは待つことにしたのです。