最初は絵だったものが、次第に文字の性格を帯び、
言葉のバリエーションが増えるにつれて表意文字では対応しきれなくなり、
表音文字が現れる
文字の発達は、物ごとの抽象化の歴史です。 目に見えるものの姿のみを写し取っていた時代から、 「音」という目に見えないものをも書き記せるのだと気づいたとき、 絵文字は具象の制約から解き放たれ、抽象的な記号である「文字」に進化を遂げたのです。
その変遷の過程は貨幣経済の発達に似ています。
昔々大昔、自分で採取したり作ったりしたものを自分で消費するうち、
人間は、余ったものを足りないものと交換することに気づきます。
そしてそのうち、「お金」という媒介を思いつきます。
お金の発明により、モノの流れは潤滑になりました。 モノをお金に替えることで、価値の温存もしやすくなりました。 お金は具象的なモノのみならず、 「労働」といった目に見えないものにも置き換えられるようになりました。 人々は、「価値」という概念の存在にうっすらと気づきはじめました。
それでも最初のうち、その「お金」とは金や銀のことでした。 「お金」それ自体が価値を持っていました。「美しい」「珍しい」という。
けれどもそのうち貨幣を作るのに、白金やら銅といった、あまり人気のない金属が使われ始めました。 ついにはペラペラの「紙幣」が登場。 今日では貨幣経済は、「紙」のやりとりすらしない、データのみのやりとりにまで発展してきました。 「情報」や「サービス」といった無形のものが、 「データ」という無形の貨幣によって取引される時代となりました。 「価値」は具象的な「貨幣」の制約から完全に解き放たれ、今や抽象的な概念として理解されています。 文字の変遷が、記録という側面における、ものごとの抽象化の歴史であるとするならば、 貨幣経済の発達は、価値という側面における、ものごとの抽象化の歴史なのです。
たとえばそこに米(コメ)があったとします。 それは、「米」或いは「コメ」「こめ」「rice」などといった文字で、記録として抽象化され、 価格をつけられることによって、価値として抽象化されます。
米は具象物ですが、抽象的なもの、概念的なもの、目に見えないものも、文字や価値に置き換えられます。
そうしたものはむしろ、文字や価値に置き換えることによって、その輪郭がはっきりします。
たとえば「夢」。
ひどくあやふやで、存在の不確かなこの概念は、
「夢」という言葉で定義されることによって、存在を裏づけられているように思えます。
言葉による定義というのはちょうど、影のようなものです。 ものごとをある側面から捉えてある種の記号に置き換えるという作業は、 三次元の物体を二次元に置き換え色を取り除くという光の作用に似ています。 余談ですが、自分は絵がヘタだと思っておられる方、騙されたと思って、描いたものに影をつけてみてください。 それだけできっと見違えるほどに絵に説得力が加わることでしょう。
あやふやで不確かなものも、影をつけると存在感が出る。
一つのものにも様々な側面があり、それゆえ、抽象化の仕方も一つではありません。
光のあて方によって、違った影ができるのと同じです。
対象の「種類」という側面に光をあて、それを投影したものが名前であり、
対象の「価値」という側面に光をあて、それを投影したものが価格です。
名前も価格も、その対象に与えられた影(シルエット)です。
シルエット化することによってものごとは簡略化され、本質が浮き彫りになります。
シルエットを与えることによって、あやふやなものの存在を確認することもできます。
人間はさまざまなものを様々な形で抽象化することによって、
目に見えないものの存在を確かめ、本質を捉える訓練を行ってきたのでしょう。
一つのものにいろんな側面から光を当てて、さまざまな形で抽象化してみる之図
かつて人間は、病を悪霊の形に描いたり、光を天使の姿に描いたりしました。 わたしが思うに、それは病を病、光を光のままで捉えることが困難だったからではないかと思うのです。 目に見えないものを目に見えない形のままで理解するのが困難だった。 だから悪霊や天使の姿を借りてくる必要があったのではないか、と。
現代人は、形のない概念を形のないままで理解できます。 それは、科学が発達してさまざまなことが解明されたので、理解しやすくなったせいもあるでしょう。 でもそれ以上に、抽象化のトレーニングを数千年も積んできたおかげだと思うのです。 モノに名前をつけたり、その価値を貨幣に置き換えたりしながら、 人は知らず知らずのうちに抽象化することに慣れてきたのです。
お金や文字、人類が何千年もの時間をかけて作り上げたものに囲まれて育った子供たちは、 たかだか十数年で、抽象的な概念を感覚で理解するようになります。 人類の長い歴史を、わずか十数年で駆け抜けるのです。
更に、普通の子供が何年もかけて歩むその過程を、もっと短期間に、一気に駆け抜けた人がいます。
ヘレンケラーです。
「モノには名前があるのだ」ということを理解するのに、彼女がどれだけ苦労したか。
それは「奇跡の人」の劇や映画を見れば分かります。
井戸の前で「ウォー!(水!)」と叫んだその瞬間が、彼女にとって、抽象化の紀元でした。