先日トンパ文字の話を書きました。 そしたら欠食児さんが、 世界の文字で遊ぶサイトを紹介してくださいました。
それを元に、世界の文字について書きました。 そしたら今度はharoharoさんが、 指文字(ゆびもじ)の存在を教えてくださいました。
指文字というのは手話同様、耳の聞こえない人と会話するために使われるものだそうです。 手話と異なるのは、それがひらがな表記を元にしているという点。 たとえば「私」という言葉は、手話なら自分を指差すしぐさで表現しますが、 指文字では、「わ」にあたる表現と「た」にあたる表現、「し」にあたる表現をくっつけて作ります。 つまり、手話がいわば表意文字であるのに対し、指文字は表音文字なのです。
「表意文字*1」 と「表音文字」について、ここでちょっとおさらいしておきましょう。
表意文字というのは、一つ一つの文字が意味を表している文字のことです。 その文字の形は、モノの形をかたどって作られることも多いので、文字の形から意味を類推することができます。 たとえばトンパ文字は表意文字であり、 その文字を習ったことがない人にも、その形から意味が想像できる文字がたくさんあります。
一方、たとえばアラビア文字は表音文字です*2。
一つ一つの文字は音を表しています。
ですからアラビア文字を習ったことがなければ、どんなに頑張っても、
文字の連なりから意味を想像することは不可能です。
現在、世界で使われている文字のほとんどは、表音文字です。
アルファベットも、日本のひらがなやカタカナ、韓国のハングルもみな表音文字です。
わたしが面白いなあと思ったのは、指文字が「表音文字」つまり音を表しているものだということでした。 聾唖者が意思の疎通を交わすための、音が介在しないはずの世界に、 音を媒体とする表現方法があるということに、逆説的な不思議さを感じたのです。
でもその不思議さによって、表音文字の何たるかが分かったような気がしました。 表意文字にとって、それが表す対象物は置き換えることのできないものですが、 表音文字にとっての「音」は、対象物を示すただの媒体であり、 文字にしてみれば、その媒体は別に「音」でなくてもいい。 音という媒体を取り去ってしまうと、 表音文字というのが、対象物を示す「ただの記号」にすぎないことに気づきます。
たとえば、「私」という意味を「○△■」と書くと定義したとします。 それは別に声に出して読めなくても、文字として成立します。 そういう決まりを設けて、常にその決まりに従って書くならば、音とは何ら関連がなかったとしても、 文字としての役割を立派に果たすわけです。
現在使用されている世の中の文字のほとんどが音に関連づけられた表音文字であるというのは、 話し言葉との互換性があって便利だからに他ならず、 話し言葉との関係を脇にどけて、対象物との関連性のみに注目すると、 表音文字はその符号にすぎないわけです。
では「ただの記号である」とは具体的にどういうことか。
さきほど、表意文字は習ったことがなくても意味を類推することができる、 表音文字は習ったことがなければお手上げ、と書きました。
手話の世界もそうです。 手話は世界のあちこちで自然発生的に生まれたものなので、国や地域によって表現が異なります。 でも、具象的な言語であることに変わりはありませんからトンパ文字同様、意味を類推することは可能です。 たとえば自分を指差せば、それが「私」という意味であるということは、 日本語を知らない外人さんを前にしても伝わる可能性が高い。
でも指文字は無理です。 いくら同じ外人さんの前で、「わ」「た」「し」という指文字を作って見せたとしても、 それが「私」を表していると分かってもらうのは、絶望的といえましょう。 日本語を知らない人にとって、「わ」「た」「し」という指文字は何の意味もなさないからです。
つまり、「ただの記号である」と言うのは、「ただのきまりごと」だということです。 そのきまりごとを知らない限り、何の役にも立たないわけです。
‥とこう書くと、「じゃあなんのために指文字なんてあるの?」ということになりそうです。 或いは「アラビア文字よりトンパ文字のほうが便利じゃない?」ということに。
でもね、たとえば、「きりん」「うさぎ」と、トンパ文字で書こうとしたとします。 トンパ文字で"うさぎ"は書けます。 でも、"きりん"は書けません。トンパ文字に"きりん"という文字はないからです *3。 トンパ文字の使われている中国南部にきりんは住んでいませんから、きりんという文字もないのです。
一方、アラビア文字で「きりん」「うさぎ」と書くことは可能です。 それはその地域にきりんが住んでいるからではありません。 アラビア語が表音文字で、実体が存在するかどうかにかかわらず、音あるところに文字もあるからです *2。
昔々、シルクロードに二人の旅人が現れ、それぞれ「きりん」と「うさぎ」と名乗りました。
それを見たアラビアの書記は、早速自分の日記にアラビア文字で二人との出会いを記しました。
「東方より旅人きたる。一人は"きりん"、もう一人は"うさぎ"という名を名乗うておる」と。
同じく二人に出会ったナシ族のトンパ(祭司)もトンパ文字で二人との出会いを綴りました。
「東方より旅人きたる。一人は"うさぎ"を意味する名前らしい」と。
でもきりんに関しての記述はオミットでした。
もしもきりんがその地で大活躍を演じたならば、或いは、既成の文字の組み合わせによって、
その人となりを詳しく記述してもらえたでしょう。
もしもものすごく偉大であったならば、きりん専用の新たなトンパ文字が誕生したでしょう。
けれど残念ながら、きりんは平凡な旅人にすぎませんでした。
なので記録には名前すら書いてもらえませんでした。書き記すすべがなかったからです。
二人は旅を続け、ある国で二人の聾者に出会いました。 一人は指文字を知っており、きりんとうさぎはさっそく彼に自分たちの名前を指文字で教え、 名前を覚えてもらいました。 いっぽう、もう一人は手話しか知りませんでした。 その国には「きりん」という動物はいましたが、「うさぎ」はいませんでした。 なので、「うさぎ」を示す手話もありませんでした。 なのできりんは自分のことを動物のきりんになぞらえて紹介しましたが、 うさぎは、その人に自己紹介することができませんでしたとさ。 おしまい。
‥とどのつまり、何が言いたいかというと、 表意文字は、身近でよく知っている具象的なものを表すことには長けていますが、 未知のモノ、新しく出会ったモノには機敏に対応できない、ということです。 だから、新たなものが次から次へとやってきたり生まれたりする変化の多い世界は、 表意文字だけでは対応しきれない、と。 特に、人名(固有名詞)というのはそれ自体がもともと記号で、抽象的ですから、表意文字では表しづらい。 同じ記号である表音文字の十八番領域です。
文字の歴史を調べてみましたら、古代四大文明プラスマヤ文明のいずれも、 最初に発明した文字は象形文字としての性格が強かったことが分かりました *4。 そして時が経つにつれ、いずれも多かれ少なかれ、表音文字の要素を取り入れはじめたようです。
エジプトのヒエログリフは表音文字としての性格を持つようになり、 メソポタミアの楔形文字も、最初は絵文字だったものが記号化し、アルファベット化しました。 殷の甲骨文字は漢字の元となったもので、漢字は現在でも表意文字的性格が強いものの、 六書に見られるように、 100%の表意文字ではありません。 マヤ文明の絵文字も、表音文字があるようです*5。
実をいうと、トンパ文字にも音を表す表音文字があり、表意文字の弱さを補っています。 手話も、本来の手話だけでは表現できない部分があるからこそ、指文字による補完が必要なのですね。
表意文字は広く通じ、表音文字は深く示せる。
単純だからこそ、表意文字や手話には文化の壁を越える力強さがあり、 ただの記号だからこそ、その決まりごとの通る世界にあるかぎり、 表音文字はフレキシブルなのでしょう。
お金編→
*1 表語文字という呼び名もあるが、定義がいくぶん曖昧なので、ここでは表意文字という言い方を選択
*2 あくまで概念なので「アラビア文字の表記は子音のみだから厳密には表音文字とはいえない」
といった議論は退けたい
*3 「麒麟」という文字ならひょっとしてあるかも‥??
*4 インダス文字については未解読だが、文字の数・形から、表音表意併用と考えられる
(インダス文明への招待参照)
その他の文字については、ウィキペディア、旺文社百科事典、
象形文字等を参照
*5 マヤ文字を解く 八杉佳穂著参照