2005年1月15日 シンデレラの装備2

年末にシンデレラの装備を書いてから半月。 自分なりにいろいろ考えた。 いろいろやってもみた。

まず、住まいに関しては、土地をいくつか見に行った。 その中にちょっといいなと思えるものが一つあったので、 馴染みのハウスメーカーに図面を持って行き、 検分してもらうことにした。

それは極端な土地だった。 長所も短所も極めて大きい。 恒久的に日当たり抜群、眺望も抜群、申し分のない広さ、地目は宅地、環境も上々。 駅からの距離もまあまあで、何より、無理なく買える価格が嬉しい。 ただ、道路付けが悪く、極端な崖地で、かなりしんどい坂の上。 資産価値はほとんど望めそうになく、 そして、安全を確保するにはひょっとするとそうとう、造成費用がかかるかもしれない土地だった。 要するに、素人がおいそれと手を出してはならない土地であり、それは重々承知の上で、 とりあえず検討してみようかということになったのだ。

図面を持ち込んだ翌日、早速土地を見に行ってくれたハウスメーカーの営業さんから電話があった。 「あの土地は正直言って、あまりお勧めできません」と。 それはこういう理由からだった。 その土地は高い崖になっているのだが、 地中に長い杭を打ち込んでおけば、 万一地崩れ土地を起こしても、自分の家の安全性は図れる。 でも、土地が崩れれば、下のお宅に迷惑がかかる。 そういう意味では、擁壁をやり直さずに新しい家を建てるのは賢明ではない。 そして、費用がかかっても自分の権限で擁壁をやりなおせるなら良いのだ。 問題は土地の権利関係で、擁壁をやりなおすには、 お隣との合意・共同作業が必要であるということだった。

それを聞いて、わたしは即座に返答した。 「分かりました。それではまた別の土地を探すことにします」と。 その「お隣」の合意を得るのは難しそうだと判断したからだ。

そこは決して豪華でもなければ新しくもない家が並んだ一角だったが、 庭に花を植えたり、家にこまめな修繕を施したりしていて、 思い思いに生活を楽しみ、住まいを大事にしているお宅が多かった。 「良い環境」とは、そういうことだ。 新しい家が並ぶ街並みは華やかだが、 本当に良い住環境とは、年を経ても年を経たなりに美しく、穏やかであることだとわたしは思う。

でも唯一、その「お隣」だけは違っていた。庭も家も荒れ放題。 いつ崩れ落ちても不思議はない、本当に人が住んでいるのだろうかと思えるような家だった。 それは最初からうさぎにとっては一番のネックで、一体どんな人が住んでいるんだろうと考えるだけで怖かった。 だから、そのお隣と資金を出し合って擁壁をやりなおす合意を得るなんて、絶対無理だと思ったのだ。

でもそのときがっかりしたかというと、実はそうではなかった。 そのときの安堵感といったらなかった。
「ああこれで家を建てなくて済む」、そう思った。

もしもそれが車が入れられなくても良いとか、 資産価値や世間体にはこだわらないとか、 そういったいくつかの割り切りができさえすれば他に問題のない土地であったとしたら、 この物件を見過ごしにするのは惜しい。 家を建てる算段を開始する絶好のチャンスかもしれないと思った。 でもそれは、家を建てるワクワク気分より、気の重さのほうが大きかった。 20年も家を建てることに憧れてきたのに、いざ建てるかと思ったら、 家のことなんて何にも分かっちゃいないと気がついたからだ。

かつて不動産の買い替えを考えたとき、きりんは勉強を兼ねて宅建の資格を取った。 でもうさぎは何もしていない。 あちこちから聞きかじった中途半端な知識が散乱するだけで、 体系だった理論は、土地に関しても家に関しても、まるっきりのナッシング。 自分の中で何を優先させるかについても、完全には絞り込めていない。

それはここ2週間、新築に関する本を読むたびに感じてもいたことだった。 今まで建築家を雇おうと思ったことも工務店を使おうと思ったこともなかったから 読んでいなかった、建築家が書いた本、工務店の社長が書いた本など *1を読んでビックリ! 一冊読むごとに、家を建てる気力が萎えていった。 この現代の日本で家を建てる業界がいかに理不尽で不可解で矛盾に満ち満ちているか、 いかに家づくりというものが失敗しやすいか、 誰にも騙されず適切な費用で新築するにはいかに並々ならぬ知識と努力、駆け引きが必要であるか。 そういったことがいやというほど書いてあったのだ。

これはまだ、自分には無理だ、と思った。 そりゃあ、何だかんだいって、世間では大勢のひとが家を建てたり買ったりしているのだから、 自分にだってやってできないことはないのかもしれない。 だけど、建ててみたはものの、せっかく建てた家や、 施工したメーカー・工務店への不満を言い募る人も周りに少なくない。 先日だって、ハウスメーカーのモデルルームから帰る途中、 たまたま駅までご一緒した別のハウスメーカーにお勤めの女性がこぼしていた。 彼女自身、その勤め先とはまたまた別の、 誰もが名前を知っている有名ハウスメーカーで10年前家を建てたのだそうだが、 不満だらけ。そのメーカーはオススメしないと言っていた。

これまでわたしは、 「家を建てるにあたって二級建築士とインテリアコーディネーターの資格を取得した」とか、 「家を建てるのはこれが3度目」というような住宅オタクの友人たちが 自分の家作りを満足げに語るのを聞いて、家づくりに憧れてきた。 せっかく大枚をはたいて建てた家への不平不満を言いたてる友人を前にすると、 「自分はそんな失敗するもんか」と思ってきた。 住宅オタクの自分は、 不満だらけの家を建てた普通の人よりも、 満足のいく家を建てた大先輩たちに近いと思っていたのだ。

だけど冷静になってみると、 大先輩の彼女たちに比べたら、わたしの住宅オタク度など、たいしたものではない。 大先輩たちのようにうまくことを運べると思ったら大間違いだ。 それどころか、最近では 「一戸建てより集合住宅のほうが自分には合っているのではないだろうか」という気さえ、多分にしている。 まだ、「家を建てる」と完全に腹を決めたわけでは全然ないのだ。

そんな状態で土地を買い、家を建てるのはイチかバチかの大バクチだ、と思った。 貯金を大量に放出し、更に大量のローンを組んでするような賭けじゃない。 今のままで十分幸せなのに、わざわざ不幸になるかもしれない賭けをする必要がどこにある?

‥そう、「この土地を買うかもしれない」と具体的に考えたとき、初めて分かったのだ。 今がいかに幸せか、って。

そもそも、きりんは最初からこの土地があまり気に入ってはいなかった。 それは、その土地が崖地だったからでも、道路付けが悪かったからでもない。 駅からその家までの間に、ガードレールつきの歩道がない道が一箇所あったからに他ならない。 「毎晩疲れて帰ってくるのに、こんな危ない道を通るのはいやだ」ときりんは言った。 そういわれて考えてみれば、今の住まいは駅からかなり歩くけれど、 駅から家の前までずっと、きちんとした歩道が続いている。

うさぎにしても、なぜたくさんの欠点に目をつぶってまでこの土地を考えたかというと、 見晴らしと日当たりが抜群によかったからだ。 北東から入って、南西方面にスカーッと視界が開ける、というところが今の住まいにそっくりだった。

部屋数が足りない、困ったと言いつつ、きりんもうさぎも結局、今のような住まいが理想なのだ。 他人からみたらちっぽけな住まい、駅から遠く、広くもなく、もはや新しくもない集合住宅の一室。 だけど、わたしたちはここが気に入っているのだ。 16年も住む間には、ご近所の誰かとケンカをしたり、トラブルに巻き込まれたこともあった。 だけど結局、細かい行き違いはなんだかんだいっていつもなんとなく解決して元のサヤに戻ったし、 あまりに猛々しい人たちはそこいらじゅうに敵を作った挙句、 みんないつの間にか引っ越していなくなった。 街もどんどん整備され、ことあるごとにきれいになっていった。 つまりここは我が家にとって「良い環境」なのだ。

土地を買って新築を考える傍ら、リフォームの計画もあれこれ練った。 当面の一番の問題はチャアの部屋を独立させること。 だけどこれも、今では半分解決してしまった。 邪魔だという理由でずっと前に取り外した引き戸をはめたら、 リビングからの独立性が少し高くなって「しばらくはこれでいいや」ということになったのだ。

彼女は最初、土地を買って家を建てることに乗り気で、 「自分だけの部屋が持てる!」と喜んでいたけれど、 具体的に検討するうち、少し考えが変わったようだ。 土地を見に行っては「こんなところに住むのは絶対にいやだ」と言い、 そのあと、ハウスメーカーの営業さんが我が家の予算に合わせて用意してくれた間取りプランを見て、 「住みたいような間取りがない」と怒っていた。 それで、「なんだ、今の家ってけっこういいじゃん」ってことになったのだろう。

現在の住まいは、きりんとうさぎが若かりし頃、衝動的に購入したものだ。 他の物件を比較対照に見に行くこともせず、不動産の知識も何もないまま、買ってしまった。 運が悪ければ、それはとんでもない買い物になっていたかもしれない。

だけど幸い、我々は運がよかった。 この家を買ったことを後悔したことは一度もない。 将来狭くなるかも‥と不安がりつつ、現時点はいつだって幸せだった。 子どももいい子に育った。 わたしはシンデレラになりたいと思ったけれど、 ドレスがなくては、馬車がなくてはシンデレラになれないと嘆いていたけれど、 すでにもう持っているではないか。一台目の馬車を。

それでももし次の馬車が欲しくなったとき、そのときは誰かが用意してくれるのを待つのではなく、 自分の力で手に入れようと思う。 その「馬車」というのは必ずしも「資金」のことじゃない。 たぶん家を建てるにあたって我が家に欠けているのは資金以上に、知識と哲学と覚悟、 そしてチャンスなのだ。

話は変わるが、デジタル一眼の購入も考えて、カメラ屋にも行ってみた。 おりしも12月に、わたしでもなんとか扱えそうな大きさ重さの新製品が発売されていた。 これなら‥とちょっと心が動いた。 でもそれは買わずに帰り、代わりに手持ちのFZ2を修理に出した。 新しい馬車より、今ある馬車をもっともっと乗りこなさなくては。 新しい馬車は今買わなくとも、いつだってわたしが手に入れるのを待っていてくれる。

また、家にあるもう一台のFZ2で、ネネやチャアの写真も少し撮り始めた。 あまり出来がいいとはいえず、FZ2くささが鼻についたけれど、 きっと向こうも思っているに違いない。 「またそういうアングルで撮らせる気かい。ワンパターンだな」って。

考えてみれば、子どもをモデルにして芸術写真を撮ろうなんていう大志はわたしにはない。 ただ乙女らの姿を写真の中に留めておきたいだけだ。 ネネやチャアが目の前でニッコリと微笑む瞬間、 ああ、この瞬間にシャッターを押せたら‥!と思うことがある。 どんなカメラだって構わない。 一番大事なのは、その瞬間に、両手でカメラを構え、 シャッターボタンに人差し指がかかっていることなのだ。 でも現実は、ほんの1メートル先に置いてあるFZ2に手を伸ばした途端、 娘たちの微笑は消えてしまう。 問題はそれがデジ一眼でないことではなく、常に手の中にあるわけではない、という事実なのだ。

半年ぶりに引っ張り出したフィルムカメラで撮った写真の出来栄えは散々。 いろいろやってみて、つくづく写真は、「カメラ」ではなく「人間」が撮るものだと思った。 どんなに贅沢な馬車があってもまだまだわたしはシンデレラになれそうにない。

ドレスと馬車さえあればお姫様になれる人は、やっぱりもともとがシンデレラなのだ。 ドレスがなくてもシンデレラ、馬車がなくてもシンデレラ。 灰をかぶっていても、みすぼらしい格好をしていても。 シンデレラのお姉さんたちにはドレスも馬車もあったけれど、 結局シンデレラにはなれなかった。

この二週間、じたばたどたばた、いろんな悪あがきをしてみたけれど、 たぶんこれもシンデレラになるための修行の一つ。 きっとほんのちょっとはシンデレラに近づいたんじゃないかと思う。

*1 最近読んだ住宅関係の本(♪印はオススメ)
建築家が書いた本
「いい住まい」の本―住む人が幸せになる家・後侮しない家 天野彰著 PHP研究所 2000年
リフォームは、まず300万円以下で―絶対に得する建築家の知恵 天野彰著 講談社 2000年
家づくり 建築家の知恵袋―「子ども部屋」のために家を建てるな 天野彰著 講談社 2000年
読まずに建てるな まともな家に住みなさい 加治将一著 文藝春秋 1997年
工務店の社長が書いた本
安くていい家―家計に優しくて住宅のプロがうなる家づくり 平秀信著 オーエス出版 2003年
家づくり革命―スーパー工務店社長の秘伝 安くていい家が必ず手に入る! 平秀信著 ナツメ社 2004年
施主が書いた本
古くて豊かなイギリスの家 便利で貧しい日本の家  井形慶子著 新潮文庫 2004年
マンションの中に世界でたった1つの木の家(エコ・ハウス)を建てる 麻生木綿子著 飛鳥新社 2000年