何が上手くいかないというのでもない。 でも、なんだか自分のやり方に自信のもてないこの年末。 その閉塞感は、初めて受験生を抱え、答えが出るのを待つ辛さにあるのかもしれず、 或いは全くそれとは関係がないのかもしれず。 ただ、子供の成長についていかれない感じがしている。
たとえば家。 高校・中学進学を控えた子供たちの実情に、今の住まいは確実に合わなくなってきている。 でもそんなのはずっと前から分かっていたことで、 それに関する対策も考えてきた。 リフォームの具体案がすでに作ってある。 でも今になって、その方策が果たして正しいのか、分からなくなった。 ただの一時しのぎに過ぎないんじゃないだろうか、と不安になる。 大きくはなっても小さくなることは決してない子供たちを抱え、 本当に今の住まいでこの先もずっと対応していかれるのか分からない。 いっそのこと、この住まいには見切りをつけたほうがいいんじゃないかと思ったりする。
一つのことに自信がもてなくなると、ありとあらゆる自信が一斉に退き、 何もかもに閉塞感を感じるのはなぜだろう。 時を同じくして、パソコンの中のもう一つの「ホーム」にも疑問が生じてきた。 ムダにページが多すぎるような気がする。 デザインが垢抜けない。 そもそも構成が根本的に間違っているような気がする。 どうしてこんなことになっちゃったんだろう? いっそのこと、ブログかオーサリングツールか何かでも導入してみたら、 活路が見出せるのではないかと思ったりする。
それに最近、写真を撮る姿勢に真剣みが足りないと感じている。 軽すぎるシャッター、軽すぎる写真。 何にも語っていない、ただモノの形をかたどっただけの軽薄な写真。 それが分かっているから、子供の写真は最初から撮る気がしない。 もっと感動を込め、もっと苦労して撮らなくちゃいけないと思う。 そのためにはもう少し上等なカメラが欲しいと思ったりする。 いっそのこと、デジタル一眼でも買おうか、と。
だけど、そう考える自分が嫌い。 家を買い換えたら‥、ブログを導入したら‥、デジ一眼さえあれば‥。 何かモノに頼れば全てが上手く行くような気がしている自分が大嫌い。 外を探すより先に、まず自分の中を探さなくては、答えは永遠に見つからないと思う。
以前誰かが言っていた。「収納が少なすぎるからうちは片付かない。 ああ、ウォークインクローゼットさえあれば‥」と。 「そんなのウソ。あなたに必要なのは、出したものを元の場所にしまうことよ」 と内心思った。 「うちは亭主の稼ぎが少ないので、貯金できなくて‥」と雑誌の家計簿診断で嘆く主婦がいて、 「違うでしょ。意思さえあれば今でも充分貯金できるはず」 というフィナンシャルプランナーと同じ答えを思った。 ドレスと馬車さえあれば、誰でも今すぐシンデレラになれるだなんて思ったら大間違いだ。
この十数年間、いつも限られたスペース、限られた予算、限られたツールをいかに活用するか、 そればかり考えてきた。 買った道具は徹底的に使い倒し、使い倒せない道具は買わなかった。 良い道具だからといって、自分に使いこなせるとは限らない。 新しい道具を欲しがるより、 まずはいまある道具を最大限に活用しようと思ってきた。 馬車を用意するのは、シンデレラの素養を身につけてからでも遅くはない。
でも、何日か前、久しぶりに縫い物をしていて思い出した。 そういえば、ついにロックミシンを買わなかったなあ、と。 ずっと前、ロックミシンを借りにきた友達に「ゴメン、持ってないの」と答えたら 「えっ、そんなにしょっちゅう縫い物をしているのに?!」と驚かれたっけ。 そのときは急に心細くなったものだった。 普通のミシンを使った端の始末の無骨さが急に気になった。 どんなにパッと見がちゃんとした服を作っても、端の始末がジグザグミシンでは、 所詮ただのお遊びにしかならない。 それが悲しくて、急にロックミシンが欲しくなった。
「そんなに住宅が好きで、あれこれ考えているのに、なぜ家を建てないの?」 いろんな人から何度もそう尋ねられたけれど、 いつもその問いは難しすぎて、うまく答えられなかった。 ただ、「なんでかなあ‥。まあ、そのうち‥ね」と曖昧に答えつつ、 世間と自分とを比べている自分がいて、 建てない自分、建てられない自分を自分で憐れみ蔑みそうになった。
「誰がなんと言おうと自分は自分」と信じきれるほど、わたしは強くない。 家の買い替えをせずにここまできたのは果たして正しかったのだろうか。 もし広い家に住んでいたとしたら、もっと充実した生活が送れていたかもしれない。 ――そんな問いを、本当は心のどこかでずっと抱えてきた。
ロックミシンを買わなかったのは、果たして正しかったんだろうか。 もし買っていたら、もっと洋裁に本腰が入れられたかもしれない。
オーサリングツールを使わずにHTMLを組むのは果たして正しいことなのだろうか。 もしオーサリングツールを持っていたら、もっと違った方向性が見えていたかもしれない。
コンパクトカメラで写真を撮るのは果たして正しいことなのだろうか。 もし高価なカメラとレンズを持っていたなら、もっと良い写真が撮れるのかもしれない。
環境は人を作る。 ドレスと馬車さえあれば、こんなわたしでもシンデレラになれるのかもしれない。
結局のところ、わたしは元手をかけるのが怖くて、 元をとる自信がなくって、それで今まで元手をかけないようにしてきただけではないのか。 元手をかけないことで、自分に逃げ道を作っていただけなのかもしれない。
‥ああでも、そう考えるのは怖い。 これまでの人生が無駄だったような気がして。 いつかきっと期が熟すことがあって、家もデジ一眼も、 それを無駄なくきちんと使える力量がついた時、 必要なだけのものが必要なだけ、 ちゃんと手に入るような手筈になっている――そう信じたい。
だけど、この先も何も見えず、何も開けず、 何も手に入れることができずに一生を終わるのではないかと思うと不安で不安でしょうがない。 「結局シンデレラにはなれなかったね」 いつか人生を終わるとき、そう言いたくない。 本当はとっくに期が熟しているのではないか。 ただ一歩踏み出す勇気がなくて、自分の決定に賭ける自信がなくて、 見過ごしにしてきただけかもしれない。
これまでどおりのやり方で今後も行きたいと思うのはもはや 過去の自分を肯定したいがための意地だ。 反面、人生を終えるその瞬間までに何が何でも帳尻を合わせたいと思うのも意地。 現状肯定も意地なら、方向転換も意地。 二つの意地を秤にかけて、わたしは何を決断しようというのだろう。
子供の成長は早い。 いつの間にか、子供服を作る必要がなくなってしまった。 ロックミシンはもう必要がない。 欲しい欲しいと心の中で思いつつ我慢しているうちに、必要自体が消滅してしまった。 ホッとしたような、何かに負けて終わったような‥。 心境は複雑だ。
子供の成長は早い。 その成長の早さが怖くて怖くてたまらない。 もっとわたしが写真を撮るまで、素敵な住まいを用意できるまで、 お願い、もう少し立ち止まって待っていて。