中華風の天蓋つきベッドで目が覚めたころには、 窓から柔らかな陽が差し込んでいた。 やった! 今日は良いお天気だ!
外も暖か。日差しが明るい。 柳は緑。 今日は絶好の洗濯日和。 ふとん、シーツ、ズボン、セーター。 洗濯物があっちでもこっちでもはためいている。 ことに電線は絶好の洗濯ヒモらしい。 パンツやら靴下やらがワイヤーハンガーにかけられて並び、 気持ちよさそうに風になびいている。
「こんなところになぜホテルが?」というようなところに、 われらが宿『平江客棧』は立地している。 ごく普通の庶民が暮らし、ごく普通の日常風景が展開する、 ひなびた二本の狭い道が交差した角に。
路地の一方は水路に沿った『平江路』と呼ばれる狭い路地だ。 水路に沿っているので空は広いが、道幅自体は狭く、車は入れない。 石畳で車輪をガタガタ言わせながら、輪タクが走っていく。 スクーターは人の歩く速度とろくに違わないスピードで、やけに静か。 四輪車の入ってこられないこの道はのどかで安全で、絶好のお散歩スポットだ。 おじいさんが孫を乳母車に乗せ、ゆっくりと押している。 ここでは老人の姿が目立つ。 おじいさんおばあさんが水路の脇に椅子を置き、 流れているとも流れていないともつかないほどかすかな水の流れに合わせ、 のんびりとひなたぼっこをしている。
もう一方は、かろうじて車が入れる道幅の横丁である。 この道をしばらく行けば大通りに出、その向こうには『観前街』という名の繁華街があるはずだ。 だが宿の前で行き止まりとなっているこの道にわざわざ乗り入れる車の数はごくわずか。 ここでも時は、本来人間の持つ速さで流れていく。
『平江客棧』は、この当たり前な風景の中に、ごく当たり前の風情で建っている。 明代から何百年も。 もとは羽振りのよい豪商の邸宅だったらしく、 屋敷の中には見事な細工が施された調度が備えられてもいるが、 外観は周囲の民家となんら変わらず、 風雨にさらされた窓の枠は開け閉めのたびにガタン、ピシン、と懐かしい音を立てるし、 運河の水面に映る外壁は、陽光豊かな晴れの日にさえ、 かつては白壁だったのだろうなあ、と思わせる程度である。
だがそれは決してこの宿の欠点ではなく、むしろ長所である。 「どうだ、すごいだろう」とか「立派だろう」などと自らを誇ることなく、 ランドマークになるつもりもなく、 ただ普通に、町並みの中に溶け込んでひっそりとしていることの貴重さ、 たぐい稀さが気に入って、この宿を選んだ。 もともと贅沢な暮らしがしたくて蘇州に来たのではない。 ただ普通の蘇州が見たかった。 新しいものと古いもの、そのどちらか一方でなく、 二つが交じり合ったところが見たかったから蘇州に来て、この宿を選んだ。 そしてそれは正解だった。
とても清潔とは思えない水路の水で、昔ながらのやり方で洗濯している人がいる一方で、 その数十メートル先では、きらびやかなチャイナドレスに身を包んだ若い女性が、 柳と水路の景色を背にポーズをとっている。おそらく結婚写真の撮影だろう。 のんびりと前を歩いていたおじいさんが突然立ち止まり、取り出したケータイに向かって大声で喋り始める。 由緒ありそうな石橋には、階段の脇に二輪車用のスロープがつけられている。 青い柳と水路の風景は何百年も前から変わらないようでいて、時代に即して動いている。
宿に備えられていた風呂桶は 日本では見かけたことのない木の桶で、 最初見たときは、てっきり懐古趣味の産物だと思ったものだった。 でもそれは、この街では今も普通に使われているものらしく、 ホテルの前の道をしばらくいったところで、 同じ形の風呂桶を作っている職人を見かけた。 さらに大通りに出ると、同じものが売られていた。 そういう発見が嬉しい。