Essay  うさぎの旅ヒント

【 出不精が海外にまで出向くわけ 】

極端な出不精で、近所のスーパーへ買い物に行くのも億劫なわたしが、 なぜときどき海外にまで足を伸ばすのか、その理由を説明するのは困難です。

実際、電車に乗って飛行機に乗り、途中どこかで乗り換えてまた飛行機に乗り、更に現地で車に乗り、 丸一日かけてやっと目的地に到着するその手順を想像すると、 軟弱なわたしは出発する前から疲れてしまい、出発日が近づくにつれ、気が重くなることもあります。 わたしの周りには、本物の旅行好きがたくさんいて、 旅行前のこまごまとした準備や、空港で飛行機を待つ間、飛行機に乗っている間など、 旅行にまつわることは何から何までぜ〜んぶ楽しい!という人も珍しくはありませんが、 残念ながらわたし自身はそのタイプではなく、 家でぬくぬくしていりゃ良いものを、何を好き好んでわざわざ旅行? それも遠く離れた海の向こうなんぞに? と自問することもしばしばです。

ただひとつ確かなのは、帰ってきた後は確実に楽しい、ということですね。 準備も何も、面倒なことはぜーんぶ終わり! もう行ってきてしまったのだから、あとはただ旅の思い出を飴玉のようにしゃぶって楽しんでいれば良いわけで、 こんなラクなことはありませんからね。 たぶんわたしは、帰ってきた後が楽しみで、旅行に出かけるのだと思います。

旅行から帰ってきていつも感じるのは、旅行に行く前よりも帰って来た後のほうが、 確実に自由になっている、ということです。 海外では、小さな驚きや発見が、至るところにあります。 そして、そんな発見に出くわすたび、わたしは小さな自由を手に入れます。 日本とは違ったやり方、考え方に触れ、「そんな考え方もあるのか!」 「そんなやり方もアリなのか!」と知るたびに、どんどん自由になっていくのです。

たとえば、ドイツやフランスでは、改札のない駅を見ました。 駅の入り口では、ただ切符に日時を打刻するだけ。 駅員もおらず、チェックは何もない。 つまり切符を持っていてもいなくても、電車に乗れるのです。

「きっと乗車中に車掌が切符拝見にやってくるのだろう」と思いましたが、これもやって来ない。 一体どうなってるのでしょう? こんなんじゃ、そのうち誰も切符を買わなくなるのでは?と鉄道会社の経営が心配になりました。

ところがあとで知ったところによれば、このような方式をとっている場合、 えてして無賃乗車がばれた場合の罰金が非常に高いのだそうです。 罰金が高ければ、敢えてそのリスクを冒そうという人は減りますし、 いたところで、高額の罰金で損した分は埋められる。 また、少々無賃乗車で損したとしても、駅員や自動改札機の経費がかかってない分、全体として鉄道会社は損をしない。 これはこれでうまく回っているのですね。

また、香港やシンガポールで見た駅は、自動改札でしたが、その仕組みが日本とは違っていました。 日本では、自動改札は通常、開いています。 切符や定期を持たない誰かがそこを通り抜けようとした時だけ、扉が閉まります。 ところが香港やシンガポールの改札は、日本でもよく遊園地の入場門に見られるような仕組みの回転式のバーが組み込まれており、 常に閉まった状態なのです。

日本の自動改札はアバウトで、混雑時に人間が数珠繋ぎになっていたりすると 一枚の切符で数人通れてしまうことがあります。 でも香港の自動改札機は、切符一枚につき、絶対一人しか通れません。 前の人に負ぶさってでもいない限り、もしくは改札を飛び越えでもしない限り、 切符を持たずに改札を潜り抜けることはできない仕組みになっているのです。

改札がないドイツやフランス、若干ゆるめな日本、タイトなシンガポールや香港。 駅の改札ひとつとっても、これだけ違うやり方がある。 どれが正しいとか、どれが一番優れている、ということもなく、 それぞれの国で、それぞれうまく機能しています。 それを考えると、物事には「こうでなくてはならない」なんてことはないのだな、 自分は自分のやり方でいいのだな、と思います。 わたしが「自由になれる」というのは、そういうことです。

尤も、海外へ行きさえすれば誰でも必ず自由になれるかというと、そうでもないかもしれません。 他国の素晴らしい部分に学びすぎてしまうと、自由どころか、窮屈になること請け合いです。 つまり、「海外ではこうしていた」→「日本も見習わなきゃ」という発想に陥る場合ですね。

奥ゆかしく勉強熱心な国民性のためか、はたまた文明開化の時代からの伝統なのか、 日本人というのはどうも、他国とくに「欧米」を見習いがちです。 「欧米では」で始まる論調はまず十中八九、「わが国も見習わねばならない」で終わると思って間違いない。 どういうわけだか、通常日本で機能している仕組みより、目新しい海外での仕組みのほうが素晴らしいと 思う傾向があるのですね。 「他国のやり方に学ぶ」=「他国のやり方を真似る」だと思っている人も多いのではないかと思います。

でもわたしに言わせりゃ、これこそが窮屈化の好例です。 わたしにとって「他国のやり方に学ぶ」というのは、 「他国のやり方も選択肢の一つとして取り入れ、選択肢を増やすこと」であって、 「これまで自分が持っていた選択肢を手放し、他国のやり方にすげ替えて減らすこと」では毛頭ありません。 わたしはそんな窮屈はまっぴらゴメン。 なぜわざわざ窮屈になりに、面倒くさい思いをして外国くんだりまで足を伸ばさねばならないのでしょう? 冗談じゃない。

世界は考えようによって、広くもなり、狭くもなります。 世界を狭め、みな似たり寄ったりの考え方を持って小さくまとまるのはある意味平和で良いかもしれませんが、 世界は広く、様々な価値観・考え方があって多様だからこそ、抗争も絶えないが、 無限の可能性を秘めているのだとも思えます。

もしわたしの隣の人も、そのまた隣の人も、みーんなわたしと同じ考え方だったら、 ケンカもないかもしれないけれど、発展もない。 金太郎飴が三人寄っても文殊の知恵は生まれませんからね。

海外旅行に行こうと思い立つとき わたしが期待するのは、 ダイナマイツなカルチャーショックや壮大な感動などではありません。 それこそ駅に改札があったとかなかったとかいうような、その程度の小さな発見に期待して、 どっこいしょっと、この重い腰を上げます。

そして、帰ってきてからニヤニヤしながら何度でも思い出す旅の思い出も、やはりその程度の小さな発見です。 「へえー、そんなこともあるんだー」と面白がれることが3つもあったら、その旅は大成功! その旅の思い出は、手に入れた自由と共に、一生の宝物になります。

2008年1月30日 うさぎ

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