ヨーロッパは遠い。 そうちょっくりちょいと行かれる場所ではないので、 いつも「久しぶりの」という形容詞がつくことになる。
7年前にあの広大なシベリアを越えたときには、モスクワ上空あたりで、その長いフライトにいよいよ嫌気がさし、 キ〜〜!と叫びたくなったのを覚えている。 じっとしているのが苦手な性分のうさぎにとっては、飛行機の機内というのはいつだって、精神修行の場だ。
とはいうものの、人間、やはり成長するものらしい。 アムステルダムに着いたとき、うさぎは「案外短いフライトだったな」と感じた。 そして、そう感じた自分を褒めてやろうと思った。
尤も、そう感じたのは、たまたま座席の場所が良かったからかもしれない。 最後尾のトイレの前の3座席は、まるでうさぎたち用にあつらえたみたいにぴったりで、 後に座席もなく、まるで押入れの隅に丸まっているような、不思議な居心地の良さ。 娘と母という、濃い血で繋がった人間たちといっしょにこちゃこちゃと、 飛行機の隅っこに固まっているのは悪くなかった。
賑やかに木靴が並ぶ免税店の前で、うさぎは言った。
「とにかくまずは日本に電話しないとね」
「分かってるって」
ネネがバッグの中からケータイを取り出した。
この留学のために購入した海外用携帯電話である。
使うのは今が初めて。
使用説明書を見ながら慎重にボタンを押す。
‥やった! 繋がった!!
機内の轟音に比べたら、空港は静かな気がしていたが、 雑踏の足音、ひっきりなしに入るアナウンスで あんがいうるさいらしい。 ネネはケータイを当てていないほうの耳を手でふさぎ、 1万キロの彼方から聞こえてくるかすかな声に聞き入った。 成田を発つ前に、 「お仲人さんから送られてきた上等な梅干を、全部食べちゃわないでね」という電話をして以来、 約12時間ぶりに聞く父の声。
電話を掛け終わると一安心、どこか居心地の良い場所を見つけ、休むとしよう。
なにしろ5時間もあるのだから。
うさぎは案内係のお姉さんに「どこか昼寝ができるような場所はありませんか」と尋ねた。
「ええ、ございますとも。そこのエスカレータを上がってメディカルセンターの奥に、長椅子があります」
ままりんが尊敬のまなざしでうさぎを見つめている。
「あなた、英語できるのねえ〜」
「うん、ママってけっこう英語できるよ」とちょっぴり誇らしげなネネ。
「この程度で英語ができるとは言わないよ」
うさぎは涼しい顔をしてみせた。
でも内心は、嬉しい。
とっても嬉しい。
母親に尊敬されて、娘の自慢のママになれて。
世間の誰に褒められるより、母と娘に褒められるのが、一番嬉しい。
うさぎはいつだって、母の自慢の娘になりたいし、いつだって、娘の自慢の母になりたいんだ。
インフォメーションのお姉さんが教えてくれた通りに行くと、 2階の奥まったところに、長いすが数十ほど並んだコーナーがあった。 海辺のデッキチェアを立派にした感じ。 うさぎたちは3つほど見繕い、その上に横になってみた。 もう少し上体がなだらかになってくれたらと思うが、それは贅沢と言うものだろう。 周りの人々はここでしっかり眠っているようだ。
でもここは、冷房が効きすぎていて、なんだか寒い。
見れば、周りの人々は、毛布をかけている。
「あれってさあ、どうみても機内用の毛布だよね」とネネ。
我らにも毛布があったら、と思うが、そんなものは持っていない。 それでもうさぎは「さあ、ここで2時間眠るのよ」という号令をかけ 「まず隗より始めよ」とばかり眠ってしまったが、 ネネとままりんは、こんなにだだっ広いところでガーガー眠れるようには出来ていないらしい、 うさぎの耳の傍でいつまでもごちゃごちゃと世話話が聞こえていた。
昼寝から起きたら、まずは両替を済ませなくては。 ニースに着くのは夜遅く。 両替屋がやっているとは限らない。 ここでキャッシュを手に入れておかなかったら、エズまでのタクシー代にも事欠くことになる。
電卓を手に、交換レートをチェックする。 ‥がーん、成田より悪い! かな〜り、悪い!! こんなことなら成田で替えてくるんだった。
‥っていうか、何週間も前に銀行でユーロパックを買っておくべきだった。 成田で見たレートにも不満があったものだから、 ひょっとして現地のほうが安いのではないかと期待して、替えずに来てしまったのだ。 でも、なんだかここのところ、ユーロは、見るたびに高くなってゆく‥。
両替屋の隣のキャッシュディスペンサーで、シーラスからお金を少し下ろしてもみた。 換算レートは、日本に帰ってからのお楽しみ。
さて、いよいよパスポート審査を受けて、ヨーロッパ国に入国だ。 ここから先はシェンゲンエリア。つまりヨーロッパである。
ところがこのパスポート審査が驚くほど簡単だった。 いやもう、「審査」なんてものじゃない。 パスコントロールの狭い通路めがけてどっと押し寄せるだんご状態の波の中で押し合いへし合いしながら、 ただパスポートを係員にかざすだけ。 係員は、「ああ、パスポート、ちゃんと持ってるね」という程度の気楽さで、 それがどこの国のパスポートか、写真と顔が一致するか、なんてことは全く気にしていなさそう。 それどころか、一人や二人、パスポートを持っていない人間がいたって、 人ごみに紛れて簡単に通過できてしまいそうだ。
いやはや、出国審査がない国は知っていたけれど、 入国審査がない国があるとは思わなんだ。 遠路はるばるやってきたというのに、 ビザスタンプを押してもらえないのが、ちょっと寂しい。