ニースに到着したのは、真夜中だった。 時計を見ると、すでに夜の11時を回っている。
空港ビルを出てタクシー乗り場の列に並ぶ。 前から10番目くらい。
タクシーはたまにしか来ない。 列はほんの少しづつしかはけていかない。 時間はどんどん経ってゆく。 一体いつまで待てばいいのやら。
ニースのタクシーはやらた暴利だと聞いている。 エズまで一体いくらかかるかと思うと、今から不安である。 でも今は、何でもいいから早く来てほしい。
20分くらい待って、やっと順番が巡ってきた。 「ジャスカ・エズヴィラージュ(エズ村まで)」と行き先を告げると、 がっしりとした体つきの愛想のいい運転手が頷いて、車は走り出した。 やった! フランス語が通じた‥!
この快挙に気をよくし、うさぎはバッグからノートを取り出し、 フランス語会話体勢に入った。 まずはええと、なんて言おうかな。 そうだ、「エズまでどれくらいかかりますか」って聞いてみよう。
うさぎはノートを繰った。 旅の会話集を一冊丸写しにし、更に他の本からも表現を補ったという、最強の手製ノートである。 これさえあれば、旅の世間話はバッチリ!
‥のはずであったが、 あいにく、夜道を走るタクシーの中は暗く、文字なんてろくに読めやしない。 がっくり。 まあいいや、ここはこの3ヶ月鍛えてきたナマのフランス語力を頼むとしよう。 たしか「時間」は「タン」とか言ったような‥。 「どれくらい」だから「ケル・タン」かな。 そういえば「ケル・タン・フェティル」とかいう文例があったような。 たぶんそれだろう。
「ケル・タン・フェティル?」
うさぎは運転手に向かって口に出してみた。
「ソメ〜イユ!」運転手は陽気に答えた。
「ソメイユ?!」 うさぎはたじろいだ。 な‥なぜだ?! 「ソメイユ」というのは、「よいお天気」という意味のはず‥。 なぜ、そういう返答になるんだ?!
あとで思い出したところによると、 実は"temps"(タン)というのは「時間」という意味のほかに「天候」という意味もあって、 うさぎが尋ねた"Quel temps fait-il?"というのはまさに、 「どんなお天気ですか」という意味だったのである。
とにかく。一度の失敗でくじけるうさぎ様ではない。
次なる手を打たなくては。
「セ・トレロワン・ジャスカ・エズヴィラージュ?(エズ村までは遠いですか?)」
「ウイ、ロワン(ああ、遠いね)」
‥よしよし、調子がいいぞ。
「ヴァンミヌート? ウ・トランミヌート?(20分か30分くらいですか?)」
「??」
先方は怪訝な顔をしている。
がーん、通じてないみたい。
うさぎは英語に切り替えた。
「アイミーン‥(つまり‥)」
これは英語らしい、と感じ取るやいなや、運ちゃんは明らかに困惑した顔つきになった。
「アー、ウー、フィフティ‥」
なんとか英語で返答しようと苦労してくれているようだが、何を言ってるんだか、よく分からない。
フィフティーンなんだか、フィフティなんだか。
しかもその単位が「分」(時間)なんだか「キロ」(距離)なんだかも。
運転にも支障がありそう。
やっぱりここは、フランス語で頑張るしかない。
「ヴゼットニソワーズ?(あなたはニースの人ですか?)」と尋ねてみた。
「ノン、カーニュ」
「オー! カーニュ! プレディシ!(カーニュですか! この辺ですね!)」
うさぎは派手にリアクションした。
ちょうど今、カーニュを走っているから、
ひょっとしたら質問の意味がちゃんと伝わっておらず、
「ここはどこですか?」という意味に取られているのかもしれない。
でもまあいいや、どっちでも。
なんかちょっと、会話っぽくなってきたじゃないか。
「メンテナン、ジュヴェザレ・エザヴィラージュ、メ、ジュヴェオーシカーニュ、ダントロワジュール」 うさぎは身振り手振りを加えて、大熱演した。 今はエズに向かっているが、3日したらカーニュにも行く、と。 「エズヴィラージュ、セ・トレビアン!」とも言ってみた。 もう、知ってる単語、知ってる文法、総動員である。
すると、「前にもエズに来たことがあるのか」という問いが返ってきた。 おーう、すごい! 嬉しい! 質問の意味が分かっちゃった! 素晴らしい!
「ノン、セ・プリミエ(いえ、初めてです)」
車がニースの街角を曲がり、どんどん坂を登っていくのを見ながらうさぎは答えた。
「メ・モナミディッサ(でも友達がそう言っていました)」
‥うそばっか。エズに行ったことのある友達なんていない。
でも適当な主語が見つからないとき、モナミ(友達)という単語は便利だ。
車はいつの間にか、尾根を走っている。
うしろを振り返ると、はるか下のほうにニースの街灯りが広がっていた。
「セ・トレオー、イシ(ここは高いですね)」とうさぎは言った。
「ノン、セパ・オー」
運ちゃんがそっけなく答えた。
「?? メ、スネパ・バ(でも低くはないでしょう?)」
「メ、セパ・オー(でも高くもない)」
「メ、エズヴィラージュ、セオー?(でも、エズ村は高いでしょう?)」
「ノン、セパ・オー」
フランス人は、断固として「セパ・オー」を主張する。
ひょっとして"haut"(オー=高い)という言葉が通じていないのかも?と思い、
うさぎは右手を横にして高い位置に置き、左手を低い位置に置いた。
「セ・オー(ここが高い)、セ・バ(ここが低い)、エ、ヌソム‥?(それでわたしたちは‥)」
「モワヤン(中くらい)」運ちゃんが、うさぎの右手と左手の間を指さした。
「モワヤン!!」 うさぎはこの言葉に深く感じ入った。 海抜400メートルの断崖絶壁に立つエズを、モワヤン(中くらい)と表現なさるるか。 南仏の感覚はスケールがでかい。 アルプスの峰と比べて言うとるのかいな。
そうこうするうち、妖しく美しくライトアップされた岩山が、前方の暗闇の中に忽然と姿を表した。
「セ・エズヴィラージュ、ノン?!」うさぎは叫んだ。
背筋がぞくっとして、突然、頭の中にハリーポッターのテーマが流れ始めた。
それは、機内映画でさんざ見たホグワーツ城にそっくりだったのだ。