空港から20分ほど走っただろうか。 タクシーはメインストリートを外れ、エズ村の崖を目指して坂を登り始めた。
小さな駐在所の前にくると、運転手は車を降り、なにやら掛け合いに行った。 一体何を話しているのかと思いつつ、大人しく座っていると、 車はまた上へと登り始め、小広いターミナルまで進んだ。 この先にはもう、車の入れるような道はない。 車から荷物を降ろしてもらっていると、 品の良い紳士が暗闇から現れ、タクシーから下ろされた荷物をカートに積み始めた。 どうやらさっきの駐在所は、シャトーエザの派出所だったらしい。 そしてこの紳士は、ポーターなのだろうか。 それにしてはやけに品が良すぎるけれど。
うさぎは運転手に料金の60ユーロと、2ユーロばかりのチップを渡した。 日本円にして約9000円。 空港からエズまでそれくらいかかると以前何かで読んだときにはその法外さに呆れ、腹を立てたものだったが、 真夜中にエズまで運んでくれた気のいい運ちゃんに払うんだと思うと、なんとなく許せてしまった。 なんて単純!
さて、簡単なカートに結わえ付けられ、紳士に引かれた荷物は狭い路地を、上へ上へと登っていった。 とはいえ道は石畳、しかも階段状になっている。 カートのキャスターはいちいちあちこちにひっかかり、ごとんごとんと鈍い音を立てる。 けれど、紳士は手馴れたもので、さして汗することもなく、エレガントな雰囲気を崩すことなく、 階段を登っていくのであった。
それを追うわが3人は、ちょっと登っただけで、早くもハアハア息を切らしはじめた。 紳士は、ちょっと立ち止まっては、3人を待つ。 あーあ、サマにならないったらありゃしない。 せっかく4つ星のホテルに泊るのだから、マダム然としていようと思ったのに。 腰を曲げ、アゴを突き出し、最初の5分で早くも地を見せてしまった。
しかしそれに引き換え、なんという舞台装置の素晴らしさだろうか。 石畳の狭い路地を、石造りの家々が掲げる街灯がほのかに照らす。 角を曲がるたびに新しい景色が万華鏡のように開ける。 その美しさ、その幻想感‥! まるで夢のようだ。
でもこれは現実。 紛れもなく。 頬をつねるまでもなく、息の苦しさがそれを物語っている。
「まるでテーマパークだね」 声に出して、うさぎは言った。 だけどそう言ってすぐに後悔した。 なんてつまらないことを言ってしまったのだろう。 でも、そうでもしないと、嬉しさのあまり、泣き出してしまいそうだったのだ。 こんなに美しい村を、独り占めできるのが嬉しくて。 これが作り物なんかじゃなく、本物の、人が住んでいる村なのが嬉しくて。 子供の頃から憧れて憧れて、恋焦がれてきたヨーロッパの中世に囲まれているのが嬉しくて。 そして、自分がチンケな東洋人なのが悔しくて。
息をハアハア言わせつつ、それでも周りの光景に感動できるとは、人間ってなんて器用な生き物なんだろう。 うさぎはもう、感動で泣きたいのを通り越して、ヒステリックに笑いたいような気分にさえなっていた。
◆◆◆
さて、登って登ってだいぶ登り、ほんの少し下った花陰に、ホテルの小さなレセプションはあり、 その隣の陰になった石壁に、重々しいドアがついていて、 そこがうさぎたちの部屋だった。
やけに遊びの多いカギ穴、ピッタリしない戸の建て付けが、いかにもそれっぽい。 石積みの暖炉、格子の入った窓、ざっくりとした敷物、全てが中世の雰囲気そのものだ。
部屋の中は暗い。 暗くてどこに何があるのかよく分からない。 机の上の灯りを点すと、 アールヌーヴォー調のランプが、中世の部屋をほんの一部分だけ、ほのかに照らした。
「ここは何?」 一番奥の扉を開けると、そこは洗面所だった。 アールヌーヴォー期から更に時代を下った明るい照明と、近代的な設備がそこにあった。
うさぎは、金色に輝く水栓やらバスタブを撫でて回った。 鏡に自分の顔を映さぬように気を配りながら。 だって、鏡に写る自分を見てしまったら最後、この夢から覚めてしまいそうだもの。
でも、鏡を見る前に、あっけなく夢は覚めた。
「あら、ここもウォッシュレットじゃないのね」という残念そうな母の声で。
‥あーあ、ロマンがないなあ‥。